十八になってとんかつに目覚めた。世間的には遅咲きである。
老いらくの恋と遅咲きのかつ狂いは、危ないという。
自制が利かないという。
泥沼にはまり(この場合は、揚げ油にまみれてだが)、我に返ったときは、もう脂とパン粉まみれになっているという。
普通、とんかつはうまいなあ、ということは中学生くらいで目覚める。
だがぼくは、大学生で知った。
嬉しいことに(困ったことに)、とんかつ代くらいは稼ぎ出せ、「かつ道」に邁進する時間的余裕もたっぷりある。
目黒の「とんき」で、とんかつの魔力を知った牧元青年は、次の標的を思案した。
上野か銀座か。カツレツ誕生の地かとんかつ生誕の地か。
これは大問題である。
岡田哲「とんかつの誕生」や、小菅桂子「にっぽん洋食物語」など様々な文献によれば、考案者は、銀座「煉瓦亭」の二代目木田元次郎氏だという。
明治三十二年に、たっぷりの植物油で天ぷら風に揚げた「ポークカツレツ」を発案し、この名称でメニューに載せる。「煉瓦亭」は、いまでもこの呼称である。
同店では、明治三十七年に付け合せに刻みキャベツを登場させ、同じ頃、本来はまかない食であった皿盛りご飯スタイルも、提供するようになる。
カツレツは次第に世に広まっていくが、当時は、ビフカツの方が主流であったという。
豚は牛肉に比べると、不潔なイメージがあった。
当時の肉屋は、牛は竹の皮、豚は経木で包んで届けていたようで、
「白っぽい経木の包みをお勝手の板の間に置くと、ちょいと、その辺へ、離して置いて行ってくれと頼む。そこいらの外の物に触れれば、きたないような気がした」。
そう内田百閒が「御馳走帖」に書いている。
豚肉が表舞台で活躍しだしたのは、関東大震災後のことだった。
にわかに養豚ブームが起こり、安価供給出来るようになって、一気に庶民に広まったという。
また、そば屋なども建替えられて腰掛スタイルとなり、カレーライスやカツ丼を出す店が増え、豚肉の需要が伸びた。
そしてついに洋食屋ではない「とんかつ屋」が登場する。