夏なのにおでんの話で恐縮ですが、しばしお付き合い願います。
おでんの起源は、平安時代にあるらしいですな。
田楽の御所言葉(女官によって話された言葉)で、お田楽の略、煮込み田楽略化説、豆腐田楽を指す白田起源説など、諸説入り乱れております。
いずれにせよ平安時代に成立した田楽舞に関係し、同じく平安時代に伝来した豆腐を、拍子木型に切って串刺しにして焼いた形が、白い袴をはき、高足に乗って舞う田楽法師(田楽を演じる僧形の専門芸人)の姿と似ているところから、「田楽」の名がつけられたんですな。
「こりゃ田楽法師に似てんな。ならこれもでんがくだあ」と、起源もお気楽で、庶民となじみが深く、愉快でです。
でも室町時代になると、すり鉢が輸入されて、味噌をすって塗るという技術革新がなされたですな。
この焼き味噌漬けスタイルは、なんと3百年間不動だったといいます。
ところが、江戸時代になると、ちょいと様子が変わってくる。
「田楽は、昔は目で見、今は食い」と、川柳に残されているように、江戸時代に入っても、愛されていたですね。
だが江戸っ子は気が短い。
「焼いてっから、味噌を塗るなんざ、待ってられねえ」。というわがままを言いだす奴がいる。
「ミソをつけるなんざ、縁起が悪いじゃねえか」と、屁理屈を言い出す奴も出てくる。
ちょうどそのころ寛永年間、一大消費地江戸のために、濃口醤油が発明されたんですね。
「よしコイツで味つけた汁で、煮込んでやろう」と、誰かがひらめいた。
鰹出汁に醤油や味醂で味付けして煮込むと、こりゃあいけるじゃありませんか。
仕込みをしておけばすぐに食べられるじゃありませんか。
こうして幕末期には、おでんの屋台が大ヒットしたのですね。
一方元になった田楽焼きは、その後も江戸庶民に愛され続けていたようです。
しかし現代では見かけませんねえ。
「はち巻岡田」で、田楽を頼む。
秋から春は豆腐田楽で、木の芽味噌と白味噌が上に塗られて登場する。
緑と白が映えて美しい。
春の終わりから秋には、「粟麩田楽」となって登場する。
粟麩を揚げて、平串に刺し、赤味噌ダレをのせる。
こいつで菊正宗の燗酒をやるのですね。
たまりません。
揚げ油のコクをまとう、もちっとした粟麩に、濃密な赤味噌のうまみがかぶさって、酒を呼ぶ。
最近は、やたら高級なものばかり喜んで、地道なものはありがたらない。
こんな肴が、どうして今の世には少なくなっちまったんだろう。