青山「ラ・ブランシュ」

37年来の料理・

食べ歩き ,

春だというのに、その日は曇っていた。
34歳だった僕は、青山のフランス料理店に向かっていた。
1989年のことである。
窓際の席に座り、渡されたメニューを眺める。
前菜一品、主菜一品から選ぶ、3800円のプリフィクスであった。
さんざん悩んだ挙句、前菜には、「ヤリイカのクールジェット詰め、トマトソース」をお願いすることにした。
やがて運ばれた皿には、生のトマトソースがひかれ、丸々太ったヤリイカが置かれ、ほうれん草がその上にある。
ヤリイカを切り、トマトソースと一緒に口に運んだ。
その瞬間、体に電流が走った。
鳥肌が立ち、めまいがした。
それほど衝撃的な味わいだったのである。
当時は分析できなかったが、ほどよく加熱されたヤリイカのたくましい甘みと痛快な食感、ズッキーニの優しい甘みとゲソの食感、そして酸っぱくほのかな甘みを宿したトマトの味が、次々と広がって、陶然となったのである。
まだ東京のフレンチは黎明期である。
都内にも数多くの店があるわけではない。
濃厚なソース主体の、他の店とは異なる軽さとシンプルさがありながら、素直に心から「うまいっ」と、叫びたくなる味わいだった。
曇っていた空が晴れわたり、心が輝いて、空に舞い上がっていく。
そんな料理の力を知った、瞬間だった。
主菜はおそらく「川俣シャモの黒米詰」だったと思う。
だがヤリイカがあまりにも衝撃的で、何を食べたか思い出せない。
店は1986年開業なので、開店してから3年後に行ったわけである。
当時はまだビクター勤務で、30年後にこんな仕事をするなんて、予想もできなかった。
だがこの料理が一つの原動力となって、眠っていたのに違いない。
その後また衝撃を受けたスペシャリテ「イワシとジャガイモのテリーヌ」が誕生する前、開店当時から作り続けている料理である。
先日、久しぶりにいただいた。
何回もいただいたこの料理の衝動は、微塵も薄れることなく、胸に迫ってくる。
体の奥底からせり上がってくる幸せがあって、涙が出そうになった。
同席者がいたので、何か感想を、何か言葉をと思ったが、一口食べた時から周りが見えなくなり、ただ無言で、1人幸福をかみしめた。
無くなっていくにしたがって、体が清められ、心が澄み、精神が白く、透明になっていく感覚がある。
それが店名にも込められた意味なのかもしれない。
まさに72歳になられるシェフの誠意である。