代々木「正一」

<会いたくなった時にあなたはいない> 「正一」

食べ歩き ,

<会いたくなった時にあなたはいない>
今ふと「正一」の料理が食べたくなった。
コロナで思うのは、あの人に会いたいという気持ちが強くなったことである。
あの料理が食べたい、という気持ちもあるが、それ以上にあの料理人やおかみさんと会いたいという思いである。
酒飲みはわがままである。
純粋で、感激屋で、頑固で、傷つきやすく、単細胞である。
そんな性質から、おまかせという方式を嫌う。
酒飲みには気弱な面もあって、他人の配分が怖い。
自分のペースで飲みたい。
酒により添うものを、舌の経験や腹具合に合わせて頼みたい。
あるいは、数多くの品書きの中から、ご主人が食べさせたいと願いを込めた料理を看破することに、喜びを見出したい・・・。
一端の酒飲みである僕も、同様の傾向がある。
だが正一では、すべてをゆだねてしまう。
飲まざるべからずという夜には、正一にいる。
仕事でストレスが蓄積されると、連夜の宴会で舌が荒れてくると、デートが思いのほかうまくいって、祝杯をあげたくなると、親しい酒徒から久しぶりに電話があると、季節の到来を感じると、信頼する部下をねぎらってやりたくなると、迷わず正一に足を向ける。
なんとも居心地がいいのだ。それも店に入ってから出るまで、ご主人とおかみさんがこちらの気配いをうかがいながら、さりげなく気づかってくれているからである。
これこそいい酒亭の条件ではないか。
そしてなにより、酒飲みのツボをちくりと突きながら、絶妙のタイミングで出される料理がたまらない。
皿が重なりすぎることなく、間が開きすぎることもない。
前の料理の余韻に浸って酒をすすり、盃を置くと、ほどなくして次の料理が運ばれる。
突き出しから終いのご飯に至る十数皿が、名投手のピッチングのように、緩急をつけながら淀みなく、食いしん坊心に投げ込まれる。
初めて訪れたのは、確か一人で初春のころだったように思う。
マンションの奥でひっそりと佇む店の木戸をあけると、
「いらっしゃいませ」と、ご主人が人なつこそうな笑顔を見せ、着物をきりりと着こんだ立ち姿のきれいなおかみさんが、上品な微笑みを浮かべた。
「お酒はなにになさいますか」。
おかみさんが柔らかな口調でたずねる。
「最初は冷たいのをいただきます。さらりとした飲み口で、香りが強くないものを」とお願いすると、三千盛の純米酒が運ばれた。
突き出しは茹でたての空豆。
青磁小皿に深い青緑が映える豆は、塩分がぴたりと決まって甘く香り高い。
最後の一粒を食べ終えると、イカと筍のぬたが登場し、やがて、床節と菜の花の煮物が運ばれた。
しっとりとうまい春の味わいに目を細めていると、お造りが出される。昆布のうまみに淡い滋味が優しくなじんだハタの昆布〆に、イカの細造り、ミル貝、イカの子。ああ酒が進む。
酒を神亀のぬる燗にかえたところでお椀が出た。
ふたを開けると木の芽が香り、春が漂った。若竹椀である。
「はぁー」。
出し露を口に含んで、うっとりと目を閉じ、感嘆のため息をもらすと、ご主人がうれしそうにはにかんだ。
まがうかたなき大阪の露である。
濃密でふくよかなうまみが食欲をあおり、もっと酒を飲めえと誘う大阪の椀である。
そんな「正一」のお椀の真骨頂は、秋から冬に出される船場汁であろう。
大阪の問屋街である船場から生まれた実質主義の固まりのような椀で、本来は一塩鯖のアラと大根による椀である。
ここでは趣向を変え、甘鯛の一夜干しや鯛の中骨を焼いて蕪と合わせて仕立ててくれる。
骨や身からにじみ出た滋味が、出しとなじみ、蕪と交流し、深々となって胸を突き上げる。
背骨がとろけてしまう、陶然がある。
椀の次は、小皿が続く。
鯛皮と胃袋の湯引きと鴨頭ネギのポン酢あえ七味がけ。
蕗の梅干しソース和え。
醤油、味醂、酒に漬け込んだホタルイカの炒め。
のれそれの玉味噌。
サヨリ白子、メジマグロ皮のワケギ紫蘇巻焼き。
鯛皮とまぐろ、貝のヒモ、ワケギによるぬた。
豆腐味噌漬などが出されるのだが、酒飲みはこの辺りでもう、骨抜き状態である。
顔は崩れ、体は上気し、へなへなと笑いながら、盃運ぶ手が加速する。
そしてずわい蟹などの蒸し物か、こっくりとした味つけが気分を穏やかにする、沖メバルやムツ、メヌケと野菜の煮つけへと続く。
ここで酔った頭は気づく。
料理の間やツボを心得ているだけではない、味の芯にご主人の誠実が染みているからこそ、このように心地好く酔い、安寧を呼ぶのだと。
あるとき、店名の由来を聞いたことがある。
正はご主人の名前から、一は大阪修行時代に感動した、京都の「南一」にあやかってだという。
青菜の胡麻和えやうすい豆の浸しといった質素な料理が、恍惚的においしかった「南一」は、ケの食材を何百年に渡って敬意を払ってきた、京都人の知恵の凄みが宿っていた。
「正一」の料理には、そんな精神に一歩でも近づかんとする愚直さがある。
その愚直さが、我々の心を和ませ骨抜きにさせるのだ。。
そう僕は思っている。
閉店