都会にあった精神の田舎<隠れ家シリーズ>

隠れ家 , 食べ歩き ,

 

 「シェ・ナガタ」の「ネギのポタージュ」 

空は青く、高く、丸かった。

ビルに遮られない空と猥雑な看板に汚されない空が、伸びやかに広がっている。

人の姿はなく、家と空の間には、ひばりの鳴き声しか響いていない。

大根の畑だろうか、家々の間に取り残された畑の青葉が、寂しそうに揺れている。

駅からもう30分も歩いただろうか。

「そうですねぇ、歩かれると20分はかかりますので、お車でいらしゃっていただけたほうがいいかと思います。バスですか? ああ、申しわけありません、近くまで来るバスはないんですよ」。

店の方はタクシーに乗れといったが、まあ天気もいいし歩くかと、てくてくここまできた。

それにしても、十分前からずうっとこんな光景ばかりである。

まいったなぁ、ほんとにこんなトコにフランス料理店があるのだろうか。

しかも足立区だぞ。

住んでいる人には悪いが、フランス料理とは無縁の地だぞ。 

降りた竹ノ塚駅だって、おじちゃんおばちゃんばかりじゃないですか。

駅前には居酒屋と喫茶店、ラーメン屋しかないじゃないですか。

足立区にフランス料理? 

ほお面白いねぇと、ノリだけで来ちゃったけど、こいつはあまりにも辺境すぎる。

のどか過ぎて、探す気力も失せてきた。

おや、あれはなんだろう? 旗じゃないか、三色旗じゃないか。

赤、青、白。

うらうらとした陽の光にさらされたフランス国旗が、ぽつねんと垂れている。

民家に挟まれた一軒家は、派手に存在を主張するわけでもなく、のんびりとたたずんでいる。

「いらっしゃいませ」。

「シェ・ナガタ」と記されたドアを開けると、若い男性が出迎えた。

店内は広く、ゆったりと間を取ったテーブルが九卓ほど並んでいる。どうやら客は僕一人のようである。

「こちらへどうぞ」。

案内にしたがって一番奥の席へと向かう。 

奥の席について目の前に広がったのは、絵画でも花でもなく、畑だった。

 ガラス壁の向こうでは、畝が五十メートルほど連なっている。

ジャガイモが植えられているのだろうか、可憐な白い花が咲き誇っている。

傍らには土にまみれたネギ。オレンジや林檎の木もある。

「お店の畑ですか」。

「ええ、いまはあのネギを使ったスープをお出ししています」。

畑に根づく太いネギを見て、喉がごくりと鳴った。

メニューを開くと、「兎のテリーヌ」、「シュークルート」、「ラタトゥイユ」、「ハチノスのピエモンテ風」、「ブーダンノワール」といった料理が並んでいる。

畑を見渡すロケーションといい、温かみが伝わる郷土料理といい、フランスの片田舎に旅した気分である。

ねっとりと豊潤な白レバーのテリーヌや練り肉のうま味にあふれた田舎風テリーヌを赤ワインと楽しむと、やがて湯気を立ち上らせながら、スープが運ばれた。

甘い。

大地の力強さを伝えるネギの甘みが、口の中に広がっていく。

丹念に引き出されたネギの滋味が、この土地の豊かさを誇っている。

飲むほどに、目の前の畑と自分が同化していくような気がした。

主菜の「ブーダンノワール」も、入念に炒めたタマネギがふんだんに添えられている。 

タマネギの甘みが鉄分を感じさせるソーセージにとろりとからんで調和し、皿全体を穏やかに仕立てあげている。

赤ワインの酔いが回ってきた。ここはどこだろう。

銀座から40分電車に乗り、30分歩いた田舎である。

張っていた精神が緩み始め、体内がゆるりとした時で満たされていく。

この店で過ごしていると、記憶の中や想像の中で漠然と存在していた田舎が首をもたげ、確かなイメージを形作っていく。

都市生活者にとっての非日常であり、レストランという非日常の遊びの真骨頂でもある。

そう、この店は大人の砂場精神の田舎なのである。