素性のわかる料理

食べ歩き ,

「素性のわかる料理を作ろうと思うんだよね」。
僕がこの世で一番好きな店のご主人は、そう言われた。
もう70を超えられて、いつ店を辞められてもおかしくない。
しかし言葉の端々からは、料理が好きでしょうがないという気配が漂っている。
「親父も言ってたが、僕もそう思うんだけど、手間賃いらねえよ。素材ぶんだけ頂きゃぁいいんだ。そうでなきゃ、こんな毎日、朝から仕込みしてられねえよ」。
昨夜お連れした方は料理人で、吉兆でも修行された和食の職人である。
しかし終始感動して、「どうしてこんな味にできるのだろう」と、首を捻られていた。。
「うまい料理を作ろうと思って、長くやっているからね」と、ご主人は微笑んだ。
初夏の突き出しは、定番の冬瓜である。
「うちは、あんこうと穴子が看板だから、それがうまいのは当たり前、だから最初の突き出しは死ぬ気で作っている」という、突き出しである。
すうっと歯が入っていくと、出汁の品と冬瓜の淡い淡い滋味が溶け込んだエキスが、静かに染み出した。
出汁の味が入りすぎても入らなすぎてもいない。
冬瓜は、出汁に気を許し切ってはいないが、拒否しているわけでもない。
冬瓜の硬さが、柔らかすぎでも柔らかくないのでもない。
すべてが理想の、極めて限られた一点に着地した、揺るぎない味である。
さりげない突き出しの、冬瓜の一皿で、鳥肌を立たせる料理人は、どれだけいるのだろう。
「ネギぬた」は、ねぎのおねばを抜きながら、歯ざわりを生かし、ぬた味噌は江戸風にこっくりと甘いが、ネギの香りを生かすことを忘れていない。
少量ふられた芥子の香りが、この料理を泥沼の重みからそっと引き上げる。
その塩梅の見事さに唸る。
「あなザク」のきゅうりは、切り方や切るタイミングに意味があり、穴子が威張りすぎることなく、両者が対等に抱き合いあいながら美しきハーモニーを奏でる。
またゴマは、これ以上擦ると野暮になり、擦らないと意味をなさないという一点が見極められ、量も含めて、あなザクという料理の格を高めている。
そして酢がきっちりと効いてながら、酸味の角が丸い。
堂々たる「平目の昆布締め」は、ねろりと歯や舌にしなだれながら、平目の尊厳を感じさせるうま味があって、うっとりと目を閉じさせる。
そして僕の知る世の昆布締めの中で、最もエロい。
「焼きこちと焼きなすのお椀」は、ああ、永遠に飲んでいたい。
江戸風の柔らかい甘みが漂い、そこへ焼きなすの香りとコチの滋味が溶け込んでいく。
この静かで、豊かな幸せを、いつまでも味わっていたい。
アイナメの煮こごり、穴子のすずめ焼、穴子のフライ。
最後のご飯の炊き方、特製のご飯の友。
似た料理は世にあるが、その本質は遠く遠く離れている。
仮にこの料理が食べられなくなったら、僕は何を食べればいいのだろう。