以前根岸の「鍵屋」でこんな方に出会った。
楓の分厚いカウンターに座ると、右隣は、80歳ほどの矍鑠たる老紳士で、ツィードの三つ揃いを着て背筋を凛と伸ばし、静かに呑んでいる。
ふと手元を見ると、店の猪口は底に青い蛇の目模様が入った利き猪口なのに、九谷焼の猪口ではないか。
やがて「お勘定をお願いします」と、紳士はバリトンボイスで勘定を済ませると、絹の白いハンカチを取り出し、猪口を包んで無造作にしまった。
マイ猪口だったのだ。全ての動作がさりげなく、飄然としている。
酒飲み道の深さを痛感した夜であった。
なんて話をしていると、
「実はわたしも」なんて切り出す粋人がいた。
先日その方と神田の「新八」でご一緒した。
「持ち込んだお猪口で飲んでもいいですか」と店の人に了承を得ると、ごらんあれ、カバンの中から出てくるわ出てくるわ、丁寧に包まれた猪口をほどき、ずらりと並んだ。
備前、黄瀬戸、九谷、志野…..。
銘々に選んだ猪口で飲む酒はうまく、すいっと胃の腑に落ちて、呑みすぎたのでありました