今まで食べてきたホタルイカは、なんだったのか。
ここに来ると、いつもそう思う。
まだ懸命にあがいているホタルイカは、釜揚げにされた。
歯が、その小さき体を断ち切ろうとした刹那、鳥肌が立った。
普段感じる、プリッと歯を押し返す感触がない。
歯は、柔らかき布団に横たわったように包まれ、ふわりとめりこむ。
噛んではいけない、いたいけな肉体がそこにあった。
痛い。
噛んでいるのはこちらなのに、そんな痛みを感じる。
身体が切れると、肝が、純真な甘みを舌に落とす。
立山連峰から富山湾に流れ込むミネラルを食べて育ったホタルイカの芯には、澄明さがたたえられていた。
これは丼いっぱい食べられるぞ。
そう思うほど、後味が澄んでいる。
釜茹での後は、炭火焼である。
炭床に渡した網の上に、ホタルイカは整列させられ、一つずつ丁寧に焼かれていく。
まずは軽く炙ったものが運ばれた。
ホタルイカは、幼いまま肝のうま味だけを膨らます。
ぬる燗を一口。
途端に幼き甘みに色気が刺す。
次に、よく焼き、流れ出る肝を体に塗りながら焼かれたものが運ばれた。
ああ、肝と身が一体化している。
ゲソは、水分が抜けてうま味が凝縮し、噛むほどに味が滲み出る。
これは大至急燗酒である。
このホタルイカは、大量に網で水揚げされる漁の前段階のものだという。
産卵のために海面近くまで浮きあがってくるホタルイカを、漁師が手網でとり、すぐさま船の水槽に入れて運んできたものである。
だから体が擦れてない。
純なまま、まだ海の中にいる。
この気高きホタルイカを、最後はご飯にして出してくれた。
ご飯が炊き上がるのを見計らって、同時にホタルイカを炊き上げ、合わす。
土鍋の蓋を開けると、大勢のホタルイカが鎮座していた。
米に肝の味がからむ。
米粒ににイカの甘みが、うっすらと染みる。
おこげにイカの香りが混ざる。
柔らかき身が、米の柔らかさと同調し、米の甘みと共鳴しながら一つになる。
そして、噛み締めるほどに、蕩然となる時間を運んでくる。
翌朝、余ったご飯をおにぎりにしてくれたものを朝食にした。
ホタルイカも10数杯入っている。
それを噛むと、まだまだいたいけで柔らかい。
僕はどうにも切なくなって、涙が滲んだ。
富山「ふじ居」にて。