好きな天丼屋は? と聞かれたら、僕もカッシーも1も2もなく「天安」と即答する。
いや正確には「天安だった」と答えるだろう。
文京区向丘2丁目にあった店は、2003年に閉店された。
今も営業していたとしたら、創業百年は超える老舗である。
下町の風情漂う佇まいの店は、よそゆきではない下手味と粋が調和した、古き良き天丼の味を守っていた。
「天ぷらごはん」も(1600円)あったが、店を訪れるほとんどの客は、天丼を頼んだ。
「天丼」(1200円)は、海老一本、きす、小海老と小柱のかき揚げである。
「上丼」と呼ばれる「上天丼」1400円は、キスが穴子に変わる。
胡麻油でカリッと揚げられた天ぷらは、甘辛く濃いつゆにつけられ、つゆをかけ回した熱々ご飯の上で、ジュジュッと音を立てながら、湯気とともに登場する。
真一文字に揚げられた穴子は、丼からはみ出しているが、他店のようにこれ見よがしなところがない。
いかにも江戸前の仕事でございという、こっくりとしたつゆをまとった、熱々の天ぷらを齧ると、魚のうま味とともに胡麻油の香りがふわりと鼻に抜けていく。
ここでご飯を猛然と掻き込む。
羽釜で炊かれたごはんは、甘く、香り高く、天ぷらをしっかり受け止める。
天ぷらを齧る。ご飯を掻き込む。味噌汁をすする。天ぷらを齧る。ご飯を掻き込む。
僕はいつもカウンターに座って「上丼」を頼み、途中でキスを追加して、揚げたてをのせてもらうのが、好きだった。
写真は気張ったのか、「上丼」である。
いつ行っても、味噌汁、お新香などのサービスのタイミングが同じで、無駄口を一切たたかない給仕の奥さんや女性も、下町の飲食店としての心意気が満ちて、清々しかった。
そして何より、鍋の前に立ち、黙々と精緻な仕事をなさるご主人が、かっこよかった。
天ぷらが揚がりそうになると、いつも同じ間で「ご飯、一つくださぁい」。と、渋いバリトン・ボイスで女性に伝える。
仕上げると、「はい、おまちどおさまでした」。といって手渡す。
「いらっしゃいませ」、「ありがとうございます」以外で、しゃべるのはこの二言だけである。
あの声、あの口調、間は、今でも耳に残っている。
「天安」の天丼には、いつもバリトン・ヴォイスが響いていた。
そして人情という深味が染みていた.