味覚が、裸にされていった。
味蕾に堆積していた常識や馴れという概念がはがされ、本来のプリミティブな味覚がむき出しになっていく。
そんな料理だった。
生椎茸はローストし、粉にされ、その粉を溶いた煮汁で生椎茸がじっくり煮含められる。
醤油も出汁も、塩も加えられてない煮椎茸は、椎茸以上に椎茸で、普段我々が到達していない味の深淵が、しみじみと染み渡る。
「ローストする時間と温度によって、香ばしさや苦みを出すポイントをコントロールできるのです」。と、シェフはことなげに言う。
鋭敏になっていく味覚に対し、すうっと出されたのが、「冷たい出汁とエンドウ豆」だった。
冷たいのに、驚くほど香りが立っている。
その滋味深さには、雑味も角もなく、どこまでも丸く、細胞に染み渡っていく。
その中で、これ以上でもない以下でもない固さに茹でられた豆の、青いうま味が、プチンと弾ける。
13年ものの羅臼と特別に作らせたという鰹節が、春と出会い、幸せを呼ぶ。
「なかた」にて