僕が京都で「浜作」しか行かなくなってしまったのは

食べ歩き ,

僕が京都で「浜作」しか行かなくなってしまったのは、日本人の精神を守っていくという強い意思を感じるからである。
営々と紡がれてきた先人たちの知恵、日本の食材を生かす叡智に対する、責任を感じるからである。

三島由紀夫は書いている。
「我々は遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の結果であり、これこそ自分であるという気持ちで以って、全身に自分の歴史と伝統が籠っているという気持ちを持たなければ、今日の仕事に完全な成熟というものを信じられないではないだろうか」。

先日も今まで出会ってきた料理でありながら、他とは異なる道理で高みに登った料理の数々をいただいた。

筍と出汁はあいません」。
「筍とイカの木の芽和えは、温かいうちに出さなくては香りが生きません」。

鱧の葛叩き椀は、鱧と葛が一体化してないといけません。そのためにはこうします」。
「イカは生で使い、包丁目を細かく入れて筍の食感を生かします」。
「脂がのりすぎた鱧はあかん。とよく言われました」。

ごちそうを食べてきて、最後に色ご飯では余計になる。最後は白いご飯です」。
などなど、いかに料理を美味しくしようか、すっきりとした美しさで貫けるかと考え、工夫を積み上げてきた、先達の真っ当な味わいが、受け継がれている。
今の大方の常識とは違う、失われた常識も多い。
「うちはガラパゴスです」と、森川さんはおっしゃるが、同じ手法でやろうにも、90年前の食材と今では違う。
その誤差をどうカバーするか、現状に満足せずに日々考えながら、理想を目指しているのだろう。
伝統を守る責任を胸に刻みながら。
その凄みが、料理から脈々と伝わってきて、心を震わす。