京都で、すごい料理屋に出会ったよ

食べ歩き ,

「京都で、すごい料理屋に出会ったよ」。
ベテランのイタリア料理人は、コーフン気味にその内容を話してくれた。
今から20年前の話である。
数ヶ月後に、早速出かけた。
その店でいただいた食事は、何もかもが衝撃的だった。
今まで出会ったこともない、清廉で脂が乗った鯉の刺身。
栃餅を浮かべた、しみじみと心を包み込む白味噌のお椀。
今では、他でもやるようになった、紅殻色のおくどさんにくべられた土釜で炊かれたばかりのご飯。
添えられためざし。
どの料理も、他の京料理とは異なる根源的な質朴があって、心を里山や森の中へと運んでいった。
なによりも驚いたのは、ご飯の前に出された、大根である。
出汁も醤油も使わず、大根と葉だけが炊かれている。
大根は、繊維などなきかのように滑らかで、口の中で甘さをゆっくり広げながら崩れていく。
そしてその茹で汁が、なんとも甘い。
塩も、出汁も、醤油も、もちろん砂糖も酒も使っていない煮汁は、大根から溶け出した滋味だけに満たされている。
甘いがいやらしくなく、体の細胞を清らかにする。
食べ物の養分を感じ取っておいしいと思う、人間の本能を目覚めさせる味だった。
「これは、長く聖護院大根を作っているおじいちゃんおばあちゃんが、出荷用ではなく、孫のために作っているのを、お願いして分けてもらった大根なのです」。
中東さんが、大根のことを愛おしそうに喋っていたことを思い出す。
今日も、堀川ごぼう、昔の京水菜、京人参、聖護院大根の炊き合わせが出された。
ごぼうはほろりと崩れて、土の香りと甘みを滲ませ、昔の京水菜は、今の水菜のように食感の歯切れの良さだけに頼ることなく、柔らかく歯が入って、優しく甘い。
京人参は、凛々しさの奥に穏やかな笑顔がある。
そして聖護院大根は、20年間変わらず、今日も我々の錆びついた体を、清らかレストアしてくれる味だった。
その煮汁を、別の小鉢に移して飲めば、「ふう〜」と、言葉にならない幸せのため息が漏れる。
真の滋養が、情報に左右されすぎの我々の本能に語りかける。
愛がある。平穏がある。
「こんな野菜が毎日食べられるなら、菜食主義になってもいい」。
無責任な発言に、中東さんは目の奥で「してやったり」と、微笑んでいた。
「草喰 なかひがし」の12月の全料理は