ロゴスとピュシス。

食べ歩き , 日記 ,

ブリアサヴァラン「美味礼讃」、袁 枚「随園食単」と並ぶ、美味を科学的かつ哲学的に解明しようとした名著、木下健二郎の「美味求心」の現代語訳が出版された。
「美味とは何か」という根源的な問いに迫り、食を通して、動植物の生態から文化・歴史・科学・倫理までをも見渡して、食べることの意味を問いかける書である。
当時の値段で1万五千円だったのにもかかわらず、三ヶ月で50刷までいったという、大正期の大ベストセラーである。
先日「八雲茶寮」にて、口語訳をされた河田 容英氏と序文「生きることは食べること」を書かれた福岡伸一氏を招いて、講義と食事の会が開かれた。
示唆に富む深い話がいくつかなされたが、その中よりひとつ紹介したい。
生物は皆同じなのに、人間だけが特別なのは、人間が世界をロゴス化することができたから。
それは物事を言語化できたからである。
言語化とは、喋ることではなく、すべての事象に名前をつけ、概念として取り出して概念化したから。
これをロゴス化と言い、ロゴス化されたことによりすべての事象は研究や文化の原点となっていく。
だがロゴス化しても本当の自然はつかまえられない。
なぜなら自然は常に動いている。
万物流転(ギリシャ哲学者 ヘラクレイトス)であるからである。
これをピュシスという。
みずみずしい命のあり方はロゴス化できない。
言語化した途端に見失ってしまうものがある。
食べる、排泄、性行、気や病、死など、人間が隠そうとするものは、ロゴス化できない。
食べるという行為が、身体的行為であり、美味はAIにとって変わらなロゴス化され得ない自称なのである。
自然をありのままに観察し、そのまま自身になって研究する
ピュシスの側面を理解することによって、美味は生まれる
それは取り上げる命に対する慈しみであり、料理人の包丁は命を断つものではなく、命を吹き込む道具となる。
食材と人間の関係は、支配、非支配の関係ではなく、命を手渡し続ける関係、つまり利他的行為なのだ。
日々「おいしい」をロゴス化している自分にとって、ピュシスの意味と意義を、改めて考えさせられた瞬間だった。