わたしは、酒亭がないと生きてはいけない。
根っからの酒好きのせいだが、それより、自分の時間を取り戻すために必要なのである。
精神がすり切れ、都会の速度に乗り遅れそうになると、酒亭に出向く。
盃を傾け、ゆるりと過ごしていると、はらりと世俗の垢がはがれて、本来の、自分の時間が戻ってくる。
こうして出かける酒亭には、二種類ある。
一つは、大塚「江戸一」、入谷「鍵屋」、門前仲町「浅七」、恵比寿「さいき」、蒲田「河童亭」、野毛「武蔵屋」という、一人で出向き、じっくり酒と向き合う酒亭である。
客の愛着と酒が染みたカウンターで飲んでいると、次第に時の進みは遅く、精神は弛緩していく。
かけがえのない時間がやってくる。
もう一種類は、「わくい亭」のような店である。
常に活気にあふれ、気のきいた肴と、腹を満たしてうまい実質的な肴と銘酒があって、座るだけで「さあ飲めぇ、さあ飲めぇ」と、背中を押される店である。
青山の「ぼこい」もそうだが、たいていはご家族でやってらっしゃって、暖かい空気が流れている。
だが甘えがない。
切り盛りする家族の間で、こうありたいという志がきりりと貫かれていて、接客にも、肴にも、酒の揃えにも、緩みがないのである。
わくい亭には一人では出かけない。
お供は、気のおけない、食いしん坊で飲んべえの友人か、親しくなった女性がいい。
店の前に立ち、引き戸をがらりと開ければ、客たちのおいしい賑わいが流れ出る。
「いらっしゃいませっ」。
大将の涌井優二さん、奥様の純子さん、弟の純三さんが、人なつこそうな笑顔を浮かべて声をかけてくる。
さあ、今日はなにを食べようかと、黒板の品書きに目を走らせる。
背黒いわしの酢〆やこちの刺身、松茸とはもの天ぷらもいいな。
馬刺しやほの甘いレバー刺しも頼みたい。
名物メンチカツやねぎ玉は必須だし、味の染み込みたかんぴょう煮やなすの焼きびたしも欠かせない。
思いは千々に乱れ、悩みに悩む。うれしいひとときである。
そう、まずは刺身類から始めよう。鮮度の高い白身魚や貝盛りか、ふわりと甘いうにで、麒麟山紫峰あたりを傾けて、一杯。
次は、香り高い、いんげんの胡麻あえやじゃがいものきんぴら、芋の甘みが生きた上品な味わいのポテトサラダといってみようか。
ここでぬる燗に変えて、貝の滋味に富むつぶ貝煮やサクッと揚げられた穴子の天ぷらを肴にしよう。
さらにはトマトのぬか漬けやあたりめの味噌漬といった、燗酒にぴたりとあう肴も頼まなくちゃ。
いや、ねっとりと舌に流れる鉄分とウースターの旨味を生かした、鶏レバーのウースターソース煮や柔らかいタンの醤油漬けを、パイクス・シラーズに合わせてもおもしろい。
さあここいらで、いよいよ名物たちを登場させる。
長ねぎと玉子の甘みが調和した、美しき「ねぎ玉」で白ワインといくのもしゃれているし、冬なら、ふっくらとした姿と量に歓声が上がる、味噌仕立てのかき鍋をつつくのもたまらない。
忘れちゃいけないのがメンチカツ。
ご覧の通り、長さ十五センチ、幅十一センチという勇姿である。
ジッジッと音を立てる熱々の衣に箸を入れれば、半透明の肉汁が滲み出る。
カリッと衣に歯を立てれば、甘い肉汁があふれだし、もう笑いは止まらない。
ビールでも、燗酒でもよし。
ソースもいいが、酒に合わせて、塩をふる、醤油をかけるなどしても楽しいぞ。 この燦然と輝く巨大メンチカツこそ、わくい亭の人情と心意気。
ほかにはないおいしいものを、お腹いっぱい食べてもらいたい。
浮世を忘れて、楽しく酔ってもらいたいという願いが詰まっている。
あとは我々が応えよう。
足しげく通っては、食らい、酔い、大声で笑う。
そして友人や好きな人を喜ばせて、幸せを共有するのだ。
メンチ
史上最強のメンチ。香ばしい衣と口の中にあふれる甘い肉汁が、幸せを呼ぶ。
松茸と帆立のフライ。
カリッと揚がった衣を突き破れば、松茸と帆立ての香りと甘みが飛び出す。
レバー刺し、鶏レバー
ほの甘く鮮度高いレバー刺しと、ウースーターと見事な相性を見せる鳥レバー。
ねぎたま。
見よ美しき姿。ネギのオネバと半熟玉子の甘みが、舌の上でとろりと溶ける。