名古屋「吉い」

いえ。しじみです。

食べ歩き ,

「あさりですか?」
「いえ、しじみです」。
そう言って吉井智恵一さんは、しじみ同士を叩き合わせた。
桑名のしじみだという。
コンコンッ。
軽快な音が響き渡る。 
一個だけ、やや鈍い音がしたしじみは避けられた。
ひたひたの水でゆっくりと炊き始める。
やがてしじみ汁が運ばれた。
白濁した、何度も目にしたしじみ汁である。
すうっ。
一口啜った瞬間に、鳥肌が立った。
柔らかい、どこまでも柔らかい。
今まで何千回としじみ汁を頂いたが、こんなに静かなしじみ汁は初めてである。。
しじみ汁を飲んだ時に感じる、微かなアクが微塵もない。
汚れ無き透明感に満ちているのだが、飲んでいくと舌の両側に、ほのかな旨みが溜まっていく
「なんともきれいですが、深い味わいも同時にあるのですね」。
そういうと、
「そうなんです」と、吉井さんは我が子を褒められたような、他意のない笑顔を浮かべられた。
この汁をとったしじみの身は、美味しくはないという。
だが吉井さんの眼力と技によって引き出された滋味は、桑名の海の豊穣と清らかなエキスを余すことなく含んで、流れ込む。
そして我々の細胞を浄め、官能を刺激し、揺れ動かすのであった。

「吉い」にて