ままかりに借りを返す。

食べ歩き ,

子供心に、どうしてもその名前に納得がいかなかった。

ままかり。

あまりのおいしさにご飯を食べすぎて、隣の家の飯(まま)を借りに行くほどだからと教えられたのだが、どうにも納得できない。

ままかりの酢漬けはおいしいけど、飯を借りたくなるほどのものだろうか。

あっさりして、おかずの合間に食べるにはいいけど、あれをおかずにしてご飯をバクバク掻き込む人なんているのかなぁ。

そう思った。

 

東京生まれで大半を東京で育った僕が、なぜままかり知るにいたったかといえば、小学校六年生の時に、父が岡山に単身赴任したのですね。

その関係で、父が帰京するたびにままかりの酢漬けをもち帰ったのである。

「ほら、珍しいだろ」。

得意気に出された「ままかりの酢漬け」は、銀白色にピカリと光って食欲を誘った。

しかし小学六年生に魚の酢漬けの魅力などわかろうはずもない。

岡山の人はこれでご飯をたらふく食べるのかぁ、変わった人たちだなあと勝手に思い込んだのである。

その翌年、夏休みに父の赴任地へ母とでかけた。

ある日母が

「市場でこんなもん買っちゃったぁ」と、ビニール袋に詰めた魚を見せた。

ビニール袋が、体長七センチほどの小魚でパンパンに膨らんでいる。

小魚は、青みががかった銀の肌をきらめかせ、真ん丸ですっとぼけた目で、こちらの様子をうかがっている。 

母は、

「これままかり。全部でいくらだと思う?十円だったんだよ」と、主婦魂を全開にして喜々としている。

袋から取り出してよくよく見れば、開いて酢漬けにされた姿とはずいぶん印象が違う。

酢漬けには懍とした品があるが、こちらは野暮ったい。

ずんぐりと小さく、腹側をふっくら膨らませた姿はユーモラスでもある。

「市場のおばさんに食べ方習ってきたから」と、母は早速調理にかかった。

鱗をはがして塩をふると、魚焼き網に乗せ、ちょいと焼きすぎなんじゃないのと思うぐらいにこんがりと焼き上げ、熱々のところへ酢をジュンッとかけた。

かくして、五十数匹はあろうかと思われる「こんがりままかり素焼きの酢浸し」は出来上がったのである。

 

 

腹の白と背の銀青にコゲの茶と黒を点在させて焼き上がったままかりたちが、酢にまみれながら気持ちよさそうに横たわっている。

ままかりの集団アロマテラピー状態である。

立ち上がる香りの香ばしいこと。

たまらず、気持ちよさそうなところをごめんねと、一番太っちょな奴を選んで、頭から齧り付いてやった。

ははっはぁ。

食べた瞬間に顔が崩れた。

皮の香ばしさが口中いっぱいに広がったかと思うと、ほんのり甘い身に酢がきりりときいてなんともうまい。

「ごはん、ごはん」。

あわててご飯を掻き込む。

小骨をとるのももどかしいほど、ごはん、ままかり、ごはん、ままかりと一心不乱に食べ進み、哀れ五十数匹のままかりは胃袋に収まったのであった。

ずるいぞ。

岡山の人間はこんなうまい食べ方を隠して、駅では酢漬け瓶を売っているのかと思ったが、そうではないらしい。

 

酢漬けには酢漬けの良さがあるのである。 

コハダが子供の舌にはウケが悪いように、その淡白な味わいは当時の僕には理解できなかったのである。

先達たちは、とうにその魅力を誉めちぎっていた。

「ままかりの旨いのに当たると何とも鮮烈な楽しみを知ることになる~略~酢の味はするのだが、それが何かもっと魚というものだぞと言われた感じにさせるものがある~略~それ程旨くて又飽きるということがない~略~やはりこれは早春の食べ物だと思う」吉田健一『私の食物誌』

「ママカリ。コハダの鮨よりもっとあっさりした味わひ。乙である」丸谷才一『食通知ったかぶり』

「たしかに冬場は、隣家から飯を借りたくなるほど旨い瞬間もある魚だと言ってよろしい」荻昌弘『男のだいどこ』

「塩でシメて、酢につけて「ママカリ」「ママカリ」と騒ぎながら、私達旅人を喜ばせてくれるつもりのようであったが、なるほど、この土地で喰べてみると、舌に媚びまつわるような甘さがあった」檀一雄『美味放浪記』 

と、いずれも絶賛である。

 

しかしご飯の友という点ではこのままかり焼き浸しは譲れない。

岡山ではモウカリともいい、七厘で焼いたのを醤油と柚子をちょいとつけて食べたり、生姜醤油につけたり、酢醤油に一晩し漬けたりするそうである。

ううむ。うまそうじゃありませんか。

しかし悲しいかな小魚の宿命で足が速い。

東京で食べるのは至難の技なのである(どなたか知っていたら教えてください)。

 

以前南青山の「さび助」で「ままかりの唐揚げ」をいただいて有頂天になり、思わず店の人にできるかどうか聞いてみたが、残念ながらできないとのこと。どうやら頭と内蔵を取ったままかりを送ってもらっている様子であった。

このように瀬戸内海の小魚は魅力に富むものながら、よそ者が取り寄せてありがたがるものではなく、それぞれの土地で消費され楽しまれるものなのである。

本来の語源は生餌ながら、味のよさでナンマンエンと愛称される広島のコイワシ(これを使った新橋「安芸路酔心」の「鰯丼」はおいしいですぞ)。

ベラの仲間で平べったい小魚で塩焼きや酢漬けにして食べる、山口の平太郎(なんの魚かわからぬが、細長い長太郎というのもいる)。

ヒメジの仲間で、薄紅色の鮮やかな体をもつ小魚の金太郎(山口)など、日常の食卓に上がる小魚のうまいこと。 

旅館などで出るわけもなく、旅人は大抵知らぬまま過ごしてしまう。

しかしままかりだけは、その俗称の命名が実にポップであったのである。

 

 

ままかりはサッパといってニシン科の海水魚である。

細小魚、笹魚の意だという。

「サッパばっかりでさっぱりだわぁ」と、駄洒落で漁師がぼやくほど、サッパのままでは、かわいげのない、寂しい名前だが、ままかりとはよく岡山の人はつけたものだ。サッパも大いに感謝しているのに違いない。

ちなみにこの魚、千葉ではサベラ、石川ではキイワシ、愛知ではギッパ、京都ではママカレイ、山口ではヒラ、熊本ではハダラなどと呼ばれているのだという。

コハダの幼魚に似ているので、シンコでこんがり素焼き酢漬けやってみたら、同じく飯が借りれるかもしれない。

ただし五十匹もやったら飯を借りるよりも、金を借りることになってしまうが。

そのシンコと、脂の乗った上等なままかりの酢シメは、姿も、繊細な味わいも似ているが、もっと味にコクのようなものがある。

岡山の「魚正」でいただいたままかりの握りがそうであった。

ぬらりと艶やかに光る握りをつまむと、酢の爽やかさが舌に流れたが、味わいの中に、シンコの小粋さとは違う甘いしたたかさのようなものがあって、顔をゆるゆるだらしなくさせるのですね。

口をキリッと引き締めてくれるのではなく、なにか人生を甘美なほうへもっていこうとする魂胆があって、これはこれで誘惑されちゃうのである。

ははん。

こういう点を岡山の人は愛し、大胆かつストレートな名を授けたのだろうか。 

だが一方で愛すべき名をつけられて、人気者になったが、それゆえの迷惑もあろう。

名を語った地元産以外の魚による、ままかりならぬ「名借り」の酢漬けが横行したとも聞く。

そんなままかりを食べ、僕らのような人間がうまいのまずいのだという。

小魚は地元にて地元の人の手によるものを食べなさい。

今回はそんな教訓を与えてくれたままかりへ、ほんの少しだけ借りを返せたかだろうか。