静謐という贅沢。

食べ歩き ,

現代において、最も贅沢なことは、「闇」を得ることである。
山奥ならまだしも、人家のあるところに闇は存在しない。
今はなき銭箱の海岸に建つバー「ユーラシア404」を訪れたとき、オーナーは言われた。
「闇を買える人が、本当のお金持ちです」と。
闇夜を背にして、言葉を繋ぐ。
「闇世の中で、洋服を着た人間は醜い。最も美しいのは裸体であり、動物だ」と。
料理においての「闇」とは、「静謐」ではないか。
高級食材が自慢をし、誇り、畳みかけ、食べ手の心を掻き立てる。
料理の極みを感じて、大いに満足する。
果たしてそれは、贅沢と言えるのだろうか。
飽食の時代であるからこそ、静謐な、朴訥とした実直さが輝く。
「柚木元」で、食事をいただきながら考えた。
どの料理も「いいね」が多くつく、「映え」はない。
だが本当にないのか。
一皿目は、「凍大根の出汁」であった。
厳寒の長野が生んだ凍大根は、大根を寒風にさらし、凍らせる。
日中の太陽が大根を溶かし、再び夜に凍ることを繰り返した食品である。
甘い。
一口飲んで思う。
ただの甘さではない。
柔らかな甘さが集積したかのような、深い、慈愛に満ちた甘みなのである。
水分が抜けて、滋味は凝縮し、糖に変化したデンプンによる甘さだろう。
それは人間が本能的に栄養と感じる甘さとはなんだろう、という答えを含んでいた。
お椀は、ウドのお椀だった。
ウドを水で炊き、その出汁と昆布出汁を合わせてある。
椀種はウドのすり流しを餅にしてあった。
一口飲む。
瞬間、山奥に連れて行かれた。
人間の気配はなく、自然の精気がひっそりと漂っている。
微かな苦味が、舌を清め、抜ける香りが、鼻腔を正す。
音ひとつない、畏怖を感じるほどの静寂がある。
わずかに粘りながら崩れる餅も、余計な味はない。
味つけは最小限で、こちらから探らなければ通り過ぎてしまうほど、淡い。
飲み終わる。
心に安寧が訪れる。
そのとき、これこそが贅沢なのだと、確信した。
飯田「柚木元」にて