日本全国には多くの板前割烹があるが、京都「浜作」の料理は、ここでしかいただけない。
どれも作り置きせずに、目の前で仕上げていく料理である。
食材を取り出し、切り、焚き、焼き、蒸し、揚げ、熱々の地を作っていく。
だからだろう。
魚も野菜も、命が逃げていない。
生きとし生けるものの尊厳を失わずに、舌に迫る。
それはみなぎる力であり、澄みわたる純粋であり、明日を生き抜く喜びであり、心の機を動かす繊細である。
先週末は、初春のみずみずしい風が、体の中を吹き抜けていった。
お椀は、「春霞椀」で、蛤の出汁と一番出汁を合わせ、白く霞んだ汁に、均等に美しく包丁目を入れられた紀伊水道の蛤、淡い雪中筍、わかめが椀種として鎮座している。
蛤と出汁の滋養が丸く溶け合い、心を弛緩させていく。
一口飲んだ途端、春の陽だまりに体が包まれ、思わず目を細めた。
揚げた白魚は、菜の花と大根おろし、炒り卵を合わせ、「菜種づけ」として運ばれた。
目に春を宿しながら、白魚のはかなき甘みを噛み締める。
卵を持った渡蟹は、茹でられ、ほぐされ、ウニと合わす。
目の前で見ていると、一ぱいの蟹に、ウニを一箱入れて混ぜ合わせている。
ウニが多いのではと思ったが、それは自分の浅はかさだった。
存在感の強いウニが脇役となって、蟹の甘みや内子のうまみを引き立てているではないか。
味がニュートラルで、品がよい。
カニやウニの質の見極めや地の味わいの決め方もあろう。
うますぎることなき味わいに、春らしい柔らかさと、芽生えの力があった。
ぐじは「若さ焼き」である。
焼いたぐじに、熱々とり立てのぐじの出汁をかけた料理であり、これぞ板前割烹の本領発揮であろう。
ぐじは、甘みに品がある。
皮の香ばしさと皮下のうまみとの対比が、一層その品を高めていた。
ああこれぞ「浜作」の味である。
板前割烹とは、ただ目の前で料理を展開するののではない。
食材と料理に気迫をぶつけて、一瞬にして昇華させ、お客に手渡す。
余計なものを省き、磨きに磨いた一瞬芸と同じく、勢いが生み出す美しさがなくてはいけない。
だが一方で料理人は、相当なエネルギーを使い、気をすり減らすだろう仕事でもある。
店主森川裕之さんは、去年末にいったん店を休み、入院され、大手術を経て、今春に復帰された。
変わらず目の前で料理を作られている。
いや、我々が受け取る勢いが、今までと寸分も変わらず輝いていたのが、なにより嬉しかった。
また伺います。
「京都浜作新店」にて。







