小一時間の充足。

食べ歩き ,

案内されたのは、奥のクーラー横の壁側の席である。
この店に何度か訪れたことのある方はご存知だろうが、毎日のようにいらっしゃる常連のお席であった。
季節に合わせた色合いの作務衣を身に付けたその方は、いつもそこに座り、同じ肴を頼み、同じペースで、泰然自若と過ごされている。
「今日はいつものお方は来られてないのですね」。そうサービスの女性に尋ねると、
「はい、お休みです」と、答えられた。
店から「お休みです」と答えられる常連客になりたいが、ここには月一回訪れるのが、倦まず弛まずである。
座って気づいたが、店内が一望できる、最上の席である。
つまり「楽しい」というお客さんたちの気を、すべて受け止めて、幸福感を抱ける席なのであった。
「ビールの小瓶と常温で酒、冷やし豆腐をください」。
まずはビールを飲んで、暑かった外気を逃してやる。
豆腐が運ばれた。
口に運べばひんやりとして、転がしてやると、豆の甘みがゆっくり起き上がる。
そこへ酒を注ぐ。
幸せが、じわりと起き上がってくる。
欲をかいて、「わさびかまぼこをください」と、追加した。
小さなわさびの塊を乗せ、その裏側に醤油をつけ、醤油側を下側にして、ゆっくりと齧る。
もっとわさびを小さくして前面に細かく乗せ、醤油をつけて食べるのもよい。
さあ、そろそろ蕎麦を頼もうかい。
「そばとろをください」
「もうお持ちしてもよろしいですか?」
酒が残っているのをはかって、尋ねられた。
「はいお願いします」。
酒はあえて飲み干さず、残しておいた。
「そばとろ」が運ばれる。
こちらのそれは、大振りの鉢にとろろ汁が入れられて、食べ応えがある。
もりやざるでは、持ち上げた蕎麦を箸から離さず、下3分の1を辛汁につけて、勢いよくたぐる。
だがそばとろでは、蕎麦を全部ざぶんとつけて、たぐる。
ああ、トロロと辛汁の塩梅がいい。
浸かったそばが、喜んでらあ。
時折、洗いネギだけをとろろ汁につけて、それで酒を呑むってえ寸法だ。
ちきしょう。酒がすすむねえ。
ここいらで、また欲張り虫が騒ぎ出した。
「すいません。玉子丼をご飯少なめでください」。
「はいわかりました。ぎょくどんご飯少なめで、ひとぉ〜つ」。
ただちに運ばれた。
なにを頼んでも待たせることがない。
ご飯の上で、半熟にとじられた玉子が湯気を上げ、早く食べてねと、誘いかける。
たまらず掻き込めば、玉ねぎやかまぼこの具も参戦して、食欲を煽る。
甘辛い丼つゆが、存分に染みたご飯もいい。
わざと淡い仕立てにしてある、お椀もいい。
椀種の平湯葉と三つ葉、薄焼き玉子もいい。
合いの手の、胡瓜と沢庵という脇役もいい。
一気呵成、脇目も振らず、食べ終えて、最後はお茶を入れてきれいにし、有終を飾った。
入店してから小一時間だろうか。
こんなに充足した気分を運んでくる店は、他にはないねえ。

神田「まつや 」にて。