「ご飯。ご飯、ご飯ください」。
この店では、料理が運ばれるたびに、叫んでしまう。
味付けが濃いわけではない。
どの料理も味付けが優しく、品があるのに、ご飯が恋しくなってしまう不思議がある。
店は、来日した王さんが、外食では食べたい料理が得られないことに憤慨して始めたという。
自分が食べたいものを食べるために店を作る。
開店理由として、これほど正しいことはない。
王さんは、家に料理人が数人いる富豪の家で生まれ育った。
当時、毎日食べていたものを再現したのである。
富豪の家だからといえ、毎日宴会していたわけではない。
家族で、お抱え料理人が作る二、三品料理をおかずにご飯を食べていた。
例えば「貝柱炒め」という料理がある。
干し貝柱を戻して炒めただけの料理は、当然ながら値が張る。
だが何も入れない貝柱だけ料理は、旨みがギュッと凝縮しており、猛烈にご飯が進むのであった。
かようなことが、本当の「贅沢」というのだろう。
「はい。牧元さんの大好きな料理です」。そう言って運ばれて来た料理は、「そら豆の炒め」であった。
これまたそら豆だけを炒めた料理だが、青々しい甘みが敵妙な塩分と油分によって膨らみ、酒なんか飲んでられません大至急ご飯となる。
ご飯に乗せてかき込めば、そら豆の甘みとご飯の甘みが舌の上で抱き合い、食欲に火をつける。
上質なエビを使った「車海老の香り蒸し」も同じく。
蒸し汁とご飯を合わせるとたまらなく、さらに取り分けてもらう時点でご飯を混ぜてもらう。
エビの旨味に醤油や酒、ネギや生姜の香り、香味油のコクが汁に溶け込んで、米が高みに登っていくコーフンがある。
さらに「トマト卵炒め」は、どこでも見かける料理だが、ここは一味違う。
炒めるときに炎を鍋に入れ込んでいるため、微かな苦味が潜んでいる。
この苦味に塩気、トマトの酸味に旨味、卵の優しい甘みに加えた甘みが、まあるくなりながら押し寄せる。
これまたご飯しかないでしょうと、炒め汁にご飯を入れれば、上質なケチャップライスに変身する。
「海南鶏」もご飯を呼ぶ。
香ばしく焼きあがった鳥の滋味にしょうゆ味のタレがあわさって、これは誰がなんと言おうとご飯しかないでしょと、いてもたってもいられなくなる。
小菜の「辣宝醤」だって、最強のご飯の友である。
厚揚げ、キクラゲ、筍の佃煮とでもいいましょうか、こっくりと甘辛く、八角の香りを生かして煮込まれたそれは、ご飯にのせると止まらなくなる危険なやつなのであった。
かくして我慢しながらご飯二膳を食べ、さらに上等な炒飯まで食べてしまう。
ああ人生って悪くない。
新宿「シェフス」
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