ありふれた食材から奇跡を生み出すという意味で、「ティエリー・マルクス」の「もやしのリゾット」にも、感銘を受けた。
口にすれば、チーズと茸が重なり合った、厚いうま味が舌を包む。
しかしその時、米粒大に切られたもやしが弾む。
チーズと茸という確固としたうま味の前では、もやしのうま味は微かで、香りも乏しい。
濃いうま味の中で、そのみずみずしさが輝く。
淡い味わいが逆に、繊細を伴う気品となって、心を打つ。
この料理の主役はもやしであり、チーズと茸は、引き立て役なのである。
初めてもやしに出会ったティエリー・マルクスは、そこに東洋の神秘を見たのかもしれない。
安価な野菜だと軽んじている我々には気がつかない孤高を感じ取り、気高さを見たのかもしれない。この料理は、そう彼が語りかけてくる料理であった。
そんなティエリー・マルクスの料理哲学を引き継ぐのが、小泉敦子シェフである。
彼女は日本での10年の修行後に渡仏し、マルクスの下で9年働いて、スーシェフを任されるようになった。
9年は長い。日本に来てまず戸惑ったのがフランスとの魚の味の違いだという。
日本人でありながら、すっかりフランス人と同じ感覚や思考が身に染み付いていた。
「日本に戻って来て、何もかもが目新しく、流通の違いや仕事の速さ、きめ細かいお土産文化など、驚くことばかりで浦島太郎状態です」と笑う。
だが、「この感覚は捨てないでいたい」とも言われた。
日本に帰って鍋が食べたいと思い作ったというハタの料理は、ブールブランという王道ソースを用いながらも、辛味のアクセントや大根や九条ネギの滋味と酸味のバランスを見事に調和させた、独自の料理になっている。
目下小泉シェフの目標は、マルクス氏から学んだ「引くことの難しさと美しさ」を具現化して行くことだという。
一皿に主材料と2種類に留めて、いかに印象を深めるか。食材の味わいが、食べる人の想像以上に増幅できるか。
そんな料理を求めていきたいと語る。
マルクス氏から一番言われた言葉は、「自分を律すること」。
敵を圧倒する術より、まず自分自身を制しなければいけないのは、日本武道の精神でもある。
自分を律しながら、彼女の中にある西欧と日本が、新たな喜びを生み出していくことを、大いに期待したい。
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