器に炊いて半分に切った海老芋が一つ。
合わせは、薄味で炊かれたゆば半の湯葉である。
海老芋は、微塵の煮崩れもなく、掘り出され、裸にされたままの姿で鎮座している。
根元を食べれば、ふうわりと甘く、微かにぽってりとして、歯や舌にしなだれる。
細い上部を食べれば、噛んだ瞬間にふわりと消えてしまう。
ここは筋張っているために、切られて出されることが多いが、海老芋のうまさはここにある。
なにごともなかったかのように溶けていく美しさと、甘さの中に少しだけ秘めた青い香りがいじらしい。
それは少女の中で芽生えつつある色気に似て、どちらかというと野暮ったい印象のある芋に、危うさと優美を色づけている。
ああ。しみじみと美味しい。
硬い皮を分厚く、煮崩れしないよう面に切る。
水から茹でて、煮えたかなと思ったら火を弱め、あと二割火を入れる。
本来だったら形を保つため、ここで冷水に取り、後で出汁で炊いていくが、それでは開いた繊維から味が逃げていく。
ここでは、、海老芋が熱々のまま百度に熱した出汁地に平行移動させる。
これによって海老芋に、ストレスなく味が入っていく。
こうして僕らの前に運ばれる。
「海老芋をしっかりむいて炊くのは、京都の料理屋の基本の基です。料理屋では、海老芋を剥こうにも、3年経たないと触らせてくれない。それほど難しく、大切なのです」。
ご主人森川さんは、そう言われた。
こういう野菜の焚き物にすっかり出会わなくなった。
料理人と素人の違いを、見せつけてくれる野菜料理にも出会わなくなった。
野菜という生物の尊さに敬意を払い、いかにその味を生かし切るか。
そのことに苦心し続けた、先人たちの智恵の集積がここにある。
海老芋のためにも、我々人間が生かされている意識を保ち続けるためにも、そのことを忘れてはいけない。
「浜作本店」にて。