ほっぺたの内側を、蹴られて鼓舞されながら、同時に、優しく撫でられてしまう鍋である。
なにしろ、運ばれてきた時の、色艶からしていいじゃありませんか。つやつやと、明るい紅色に輝きながら、食欲を煽ってくる。
肉は、骨ごと叩いた鶉肉とひな鳥のもも肉を、やや鶉を多めにして合わせたつくねである。
色合いは、鶉の赤色が勝っている。そいつを箸でつまんで団子にし、鍋に入れる。鍋の進行に合わせて、順次入れるのではなく、一気に全部入れる。
形は不格好でいい。つくねを入れたら、野菜を入れてしばし待つ。
ほうらふつふつと、鍋つゆが湧いてきたぞ。つくねが薄茶に変わって、ぷかりと浮いてきたぞ。
そこですかさずつくねと、鍋つゆを小鉢に入れる。
熱々のつくねを、ハフハフいいながら口に放り込む。噛めばコリリと叩かれた骨が歯に当たって、鶉の猛々しい鉄分が広がり、続いて穏やかな鶏の滋味が追いかける。
この対照的な両者の味わいがいい。
鶉の味で上気し、鶏の味で心が和む。
食べる我々の心をもてあそぶような味わいが、一つの小さな団子の中にあって、夢中となる。
これは、鍋界のジェットコースターだ。上げて下がって、もみくちゃにされながら、味の虜となっていく。
もう箸は止まらない。
次々とつくねを口に運び、時折我に返っては、白菜やら葱やら椎茸やら豆腐を食べる。
この合間の野菜や豆腐が、またいい。いったんリセットされて、また猛烈につくねが恋しくなるのだ。
つくねに野菜という、リズムの強弱が生まれ、鍋熱は、一気に過熱する。
さらに鍋が進むと、鍋つゆが変貌を遂げる。薄口に味をつけられたつゆに、次第に鶉つくねの味が溶け出し、濃密になっていくのである。
そのつゆが染みた白菜のおいしいこと。細切りにされた白菜の芯部は、くたりとなった頃が食べごろで、白菜の甘みとつゆの濃厚が一体化して、目が細くなる。
昆布鰹という海の滋養に、鶉という山の滋養が加わった、最強の鍋だ。
それはご主人の出身だという、新潟という山と海の恵みに囲まれた地への、敬意なのだろうか。
最後は雑炊。
敬意が煮詰まり、凝縮した味わいが、再び食欲をわしづかむ。鶉の逞しい肉の味に鶏脂のコクが加わった出汁が、米に染みて、思わず笑わずにはいられなくなる。
つくね鍋。
おいしく食べる第一の秘訣は、つくねの丸め方にある。きれいに丸めなくていい。不格好な方が、舌や上顎への刺激があって、鶉の野生を太くする。
また大きさも、大小と不揃いな方がいい。小さいのを噛みしめたり、大きなのをほおばったりと、同じつくねながら変化が出るからである。
またつゆにも気をつけよう。次第に濃密になるつゆを大切にするため、注ぎ足さなくてすむよう、火加減に注意し、小鉢にとる量も、常に最小限を心がける。
具では、このつゆが染み込む白菜が重要で、鍋の後半戦で食べること。
そして最後は雑炊。
つくねを二個くらい残しておいて、崩してバラバラにし、雑炊に混ぜて食べる。うまい。