食通だった荻昌弘は、この店を「大人の保育園」と呼んだ。
客には、外語大の先生や医者が多く、その錚々たる知識人たちが、無邪気に呑まれていたからである。
ドイツ文学者の高橋義孝や、詩人の田村隆一が常連だったことも知られる居酒屋である。
コの字型のカウンターの中は板張りになっていて、女将さんがお燗をつけていく。
かつていらっしゃった、取りつく島がないほど無口な老婦人の女将さんは、荻昌弘をして「神技」と言わしめたほどの完璧な燗をつける人であった。
30代でこの店を知った僕は、一人で座って愕然とした。
ほとんどの客が50歳以上の紳士で、皆泰然自若として揺るぎなく、騒ぐこともなく、静かに酒を楽しんでいる。
明らかに30代の小僧は浮いていた。
誰もこちらを見たりはしないが、「お前にはまだ早い」と、言われていた。
40代になって、なんとか常連になろうと3日続けて、店の開けはなに通ったコトがある。
しかし件の無愛想な女将さんには、まったく相手にされなかった。
やはり「お前にはまだ早い」と、言われている気がした。
50代になって、少し馴染んできたような気がしたが、今度は「歳をとっただけではまだ早い」と、感じる自分がいた。
60代になって、今一人で座り、ゆるりと呑んでいる。
もう違和感はない。
年下のお客も増えた。
だが心の片隅で、自分はあこがれていた大人の酒徒になれたのだろうか、という疑問が湧く。
背筋を正し、頼む間隔を考え、飲む速度を一定にしようと心がけている時点では、まだ早いのではないかと思う。
自分より先輩の酒徒が、酒と空間を舐めまわすように楽しんでいるのを眺めながら、真に入園が許される日を夢みて、盃を口に運ぶ。
食通だった荻昌弘は、この店を「大人の保育園」と呼んだ
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