米は生きていた。
一粒一粒が意思を持って、口の中で舞い踊る。
玉子炒飯なのだが、玉子はまったく視認できない。
玉子は油と一体化し、二千粒の米一粒一粒を均等にくるんでいる。
あとはわずかなスープと1ミリ以下の同寸に切られた白ネギと、塩だけである。
米の甘みと玉子の優しい甘み、スープの旨味と白ネギの香りが、丸く、丸く一体化し、空気の玉となって、舌の上を転がっていく。
こんな体験ができる炒飯は、そうはない。
まさしく炒飯という料理を生み出した人間の、叡智と技を極めた頂であろう。
だから食べた人は、瞬間に唸り、笑い、一心となり、気がつけば、皿は空となっている。
三田「桃の木」が移転、3/3桃の節句に紀尾井町で開店。
この炒飯が来月から食べることができるのかと思うと、もう僕は居ても立っても居られない。