三田「コートドール」

気迫と曖昧。

あえかなり。
年の頃は、16か17だろうか。
輝く枯色のムースを、一さじすくって口に運ぶ。
ムースはどこまでも滑らかで、舌の上に乗ったかと思うと、はかない甘さを滲ませながら消えていく。
消えかかる刹那、トマトソースの酸味が、ひっそりと追いかける。
その甘みと酸味は一つとなり、夢となって去っていく。
時間にして10秒もないだろう。
だがその料理の記憶は、永遠に刻み込まれる。
アミューズとして、前菜として、こんなにも切ないのに心に残る料理を、僕は他に知らない。
赤ピーマンの甘さは引き出しているが、極めて淡い。
クリームが使われているが、軽やかであり、味の濃いトマトでクーリーは作られているが、主張しすぎることはない。
この料理は無常感と背中合わせであり、誤解を恐れずに言えば、西洋人には理解できないかもしれない。
日本人の潜在的美意識を震えさせる料理だと思う。

斉須シェフは、著書「メニューは僕の誇りです」の中で、大勢のシェフが追随してこの料理を作ってきたことに対し、こう書かれている。
「違いがあるとしたら、たぶん希薄さ、曖昧さではないでしょうか。料理にはこれ以上手をかけないという段階があります。料理人が己の技術に面白さを感じている時期は、攻め込みたくなるものです。素材の輪郭を明確にした料理を、お客様にアピールしたくなる。しかしながら、場合によりそれは素材にとって命取りになりかねないのです」。

2023年パリの「ランブロワジー」で、久々に復活した「赤ピーマンのムース、トマトのクーリ」を食べる機会を得ました(2枚目の写真です)。
斉須シェフのそれが、しとやかな16,7の日本女性だとすれば、パコーシェフのそれは、溌剌とした色気を漂わし、激しい恋を求める女性だった。
甘味という個性を発揮する赤ピーマンと、太陽の匂いを発散させトマトのクーリーが、舌を圧倒する。
だが、どちらが好きか?
最後の晩餐にどちら食べたいか? 
そう問われたら、迷わない。
その時僕は、ひっそりと、日本人だということを認識した。

三田「コートドール」にて