初春の酒 

食べ歩き ,

初春の酒

名古屋浄心の住宅街にある。
通い始めて5年にはなろうか。
唯一名古屋で信頼できる店だ。

薄明かりが灯された玄関の引き戸を開けると
細い通路となった土間に出る。
右手に障子が並んでいて、そこを開けると客席だ。
今晩の客は僕一人。
「お久しぶりです」とご主人が頭を下げた。

第六千八百五十三番と記された
手書きの品書きが置かれた。
開店して6850夜を迎えたというわけだ。

向 からは、ほうぼうと太刀魚を選んだ。

きりっと生きたほうぼうからほの甘い汁がにじみ出る
細造りにされた太刀魚の脂が舌に押し寄せる。
いい宵が始まった。

冷 は、散々悩み>「春菊と京人参のおひたし」を。
春菊の香りと歯ごたえを残した京人参がいいなあ。


からは、「鯛とかぶ」
鬼おろしでおろした蕪の甘みが、鯛のうまみと抱き合って高みに昇る。
幸せだ。
もう一つ、「凍大根と油揚げ、芹」を選ぶ。

出しの味と油揚げのコクが、こっくり染みこんだ大根をしみじみとかみ締める。
そこに芹が香る。
そして、ぬる燗をやる。
これ以上の幸福があるのだろうか。

早春が香る「生わかめ」に目を細め、

焼肴からは
これまた悩んだ挙句 「わらさの照り焼き」をお願いする。

くずを打った餡が、わらさのたくましさを持ち上げる。
酒もそうだそうだと同調する。

最後は忘れちゃいけない、「はんぺん」だ。

揚げたてのそいつをたべりゃ、みな笑う。
魚のやさしい甘みとふわりと溶けいく食感が、人間を穏やかにする

さあ四合も飲んだことだし、
そろそろ留めといってみよう。

ああ、悩む。

決められん。
そこでわがままを。

「ふきのとうのおにぎり一個と天むす一個、それにやきもちを」。
自家製ふきのとうの佃煮が入ったおにぎりと

新潟に特別に頼んでいるという蓬もちが  暖かな春を運んでくる。

そして天むす
活きの才巻き取り出して殻を剥き 、さくっとてんぷらにして おにぎりへ。

贅沢というより、心を込めて。
感謝の気持ちがすうっと立ち上がる。

肩に力の入っていない料理は、 人間の背筋と精神を伸ばしてくれる。