もしこの店がなくなったら、いくつかの料理は、日本でニ度と食べることができないだろう。
淡白な味わいを大切にし、そこはかとなくネギや生姜の香りを生かすことを信条とする 北京料理の店である。
ネギ、生姜、花椒の香りを移した葱油(ツォンヨウ)を使い、食材の風味を生かしながら、その微かな香りを楽しむ。
砂糖は使わず、醤油は使うが、塩味か醤油味かは、その食材をどう生かすかによって決める。
そんな北京料理を代表するものが、昨夜の前菜「和菜絲」だろう。
潰した豆腐を茹でて浮いてきたアクを取り、さらに浮いてきた豆腐をすくい取って晒しで巻いて水分を抜いて固めた自家製豆腐干、人参、絹さや、セロリ、椎茸、長ネギ、生姜を細く細く糸切りにし、葱油と酒、塩と胡椒だけで味をつける。
食べると絹さやがシャキッと音を立てて香りを放ち、人参、椎茸、生姜、セロリ、長ネギの味わいが順々にやってきて、最後に豆腐の穏やかな甘味が顔を出す。
どれが出しゃばるだけでなく、口から同時に消えていく不思議さは、精妙な絲に切られた仕事にあるのだろう。
それぞれの味わいがほのかに伝わってくるのは、ここという一点にとどめた塩加減の勇気にあるのだろう。
中国料理に詳しい人によれば、もう北京でもこんな料理を作る人はいないという。
それが日本で、荻窪でいただける幸せを噛みしめる。
斉藤永徳さん64歳。まだまだ僕らに幸せを運んできてください。
「北京遊膳」にて