「なんもしてません。炊きたてのご飯です。うちのご飯が柔らかいんは、固いと、今までお出した料理の流れから浮いてしまうからなんです」。そう言ってご主人は静かに微笑んだ。
そのご飯の上には、昆布の佃煮とおかかの炊いたんがのっている。
「醤油で炊いたんが『招き』と呼んでまして、梅で炊いたんが『福』と呼んでます。合わせて招福ですわ」。
軽井沢「招福楼」。ただの出店ではない.
夏の間だけ、ご主人と息子さんが来られて板場に立つ。
しかも本店や丸ビルはお座敷だが、軽井沢だけはカウンターが設えてある。
梅餡に蓮饅頭で始まった料理は、お椀へと続く。
一口飲んで押し黙った。
それは、霞のように静かで朝露のように丸い。
これ見よがしではない、ひっそりとしたうま味が舌を滑り、喉へと落ちていく。
その瞬間、自然の中へ投げ出されて、体がふわりと軽くなる。
目をつぶれば、軽やかになった体の隅々へと、滋養が行き渡っていく。
「ふう〜」。充足のため息一つ。
無くなっていく汁を、惜しむように飲み干す。
明石のマコガレイとアオリイカの刺身は、二種の醤油が用意され、わさびを溶いて浸けて下さい。と言われた。
刺身にわさびをのせては、カレイやイカより、わさびが勝ってしまうからである。
鮎の一夜干しは、その柔らかい甘みが優しく、海老もイチジクも細やかな仕事によって輝いている。
そして炊きあわせに、もう一つのクライマックスがあった。
焼いて蒸し、炊かれた鰻は、小ぶりゆえに脂ではない鰻の持ち味があって、盛夏の茄子が醸す豊穣や炊かれて刺激が丸くなった茗荷と、仲睦まじく抱き合う。
そして煮汁は、鰻の滋養と茄子の甘みが溶け出て、なんとも深く、温かく、我々の心を包み込む。
小鉢を持って汁を飲み干すと、目の前にはご主人の笑顔があって、「汁まで飲んでいただきありがとうございました」と、言われた。
食材は毎朝、錦の市場から宅急便で届く。だが
「渋滞があると、宅急便よりお客様がいらっしゃる方が早かったりすることもあります」。というから、大変である。
軽井沢で京野菜や明石の魚を食べることに意味があるのか、という人もいよう。
だが、自然に寄り添った、なだらかなる料理は、都会より、木々が運ぶ匂いの中で食べるのが、正しいのかもしれない。
いや正しいか正しくないではない。
軽井沢の、それも山奥の中でいただく料理は、虚飾にまみれた我々の味蕾を解放し、官能を響かせる。
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