うっかりすると見過ごしてしまう

食べ歩き ,

うっかりすると見過ごしてしまう。
小さな看板は、道路脇で隠れるように立てかけられていた。
車を止め、小高い丘へと登っていく。
苔むした石畳を進むと、門があり、さらに石階段を上る。
やがて店が姿を現した。
黒板壁の家が、手入れの行き届いた緑の中で静かに佇んでいる。
正面には簑傘と竹棒が立てかけられ、細長い板には「入口 いらっしゃいませ」と書かれている。
「いらっしゃいませ」。70歳位だろうか、現れたのは、品のいい小柄なご主人だった。
微笑むその目に、知的な影を秘めている。
奥さんが料理を作り、ご主人が運ぶ。
窓からは、見事に整えられた庭の緑が風を運び、遠くには海が見えている。
「誰かの別荘だったんですか?」あまりに見事なしつらえに聞くと、
「いえ、主人が会社を引退してから一人で全部作ったんです」と、奥さんが答えた。
長命草と鯖節のあえもの、きびなご、半玉の胡麻和え。
炊き合わせ、カツオのカルパッチョ、チレダイの煮付け。
どれも味がピタリと着地して、ぶれがない。
心をじわりと包む、温かい味であり、豊かで静かな自然に寄り添う味である。
「デザートは、コーヒーにケーキか、抹茶にぜんざい、どちらがよろしいですか」。嬉しい申し出にぜんざいを選ぶ。
豆の優しい甘みが出たぜんざいを食べ、抹茶をいただく。
できるなら、ずうっとここにいたい。
みなそう思いながら、緑を海を、眺め続けていた。