マイそば史2

食べ歩き ,

前号まで。

自宅前の「巴屋」の出前に始まったマイそば史は、軽井沢「かぎもと屋」でコペルニクス的転回を経験し、次に「荻野屋」ドライブインで、立ち食いそばに目覚める。

 

 

小学生高学年で、「かぎもと屋」と「荻野屋」を知った僕は、すでにいっぱしのそば通であった。

同級生を見ても、出前の味しか知らない。立ち食いそばの存在も知らない。「かぎもと屋のそばはね、平たくて、時々切れ端なのか、すごく幅の広い奴が混じっているんだよ」と話しても、だれも信用しない。というよりも、だれも興味を示さない。

ボクは、小学生の頃から食い意地が張っていて、先生は日記に、赤字でこんなこと書いて返してきた。

「たまには、食べもの以外のことを書きましょう」。

だから盛んにそばのことを話すのだが、皆の興味は、チョコフレークであり、グループサウンズであり、ウルトラQであり、ハイユニ鉛筆であり、サッポロ一番であり、ビートルズ来日であり、おそ松君であり、山本リンダなのであった。

それにしてもそばを知ったぐらいで、大人への通過儀礼を果たした気分になっていた当時の小学生は、無邪気である。

しかし中学に入ると、さらに驚く出来事が待っていた。日本橋のデパートで、母の買い物に付き合った帰りに、母が友人と待ち合わせしているから、一緒に昼ご飯を食べようということになった。

その友人であるおじさんに連れて行かれたのが、神田のそば屋であった。後になって知る、「室町砂場」である。

まずおじさんは、席に座るなり「ビール」と頼んだ。昼から飲む人がいるんだと思って、周りを見渡すと、ケッコウ昼から飲んでいるではないか。

そして、「板わさ、焼き海苔、玉子焼き。焼き鳥タレでね。おっとアサリも忘れちゃいけねえ。あさりもね」と、一気に頼み、「あっ、燗酒もお願いね」と、たたみかける。

なんだ、そばを食べに来たんじゃないのか、そばは頼まないのか。板わさとはなんだろう。なぜそば屋に、焼き鳥があるのだろう。酒まで頼むのか。と驚いていると、君はなにを食べるのかと聞いてくる。

なにを食べるかって、こちとらもりかざるしか食べたことがない。天ぷらそばは、親の食べるものであって、まだデビューはしていない。そこで

「ざるそば」。と小さな声でつぶやくと、

「おっ、ざるそばかい。若いのに粋だねぇ。でもここは、天ざるが有名なんだ。天ざるにしな」と、無理やり変更させられた。なにが粋なのか、天ざるとはなにか、増々謎は深まっていた。

 

 

やがてビールと、つまみが運ばれてきた。

うまそうに、ビールを飲むと、「ふう~。昼のビールはやめられねえ」と、呟いた。

蒲鉾は、キレイに切られ、三個二個一個とピラミッド状に積み上げられ、ワサビと佃煮が添えられている。あさりは茶色に染まり、玉子焼きは、分厚く、おいしそうな焦げ目で、食欲を誘う。長方形で朱色の木箱の蓋を取ると、漆黒に輝く、焼き海苔が現れた。

おじさんは、蒲鉾も海苔も、ワサビと醤油を浸けて食べ、うまそうな顔をすると、酒を飲んだ。

奨められるままに食べれば、蒲鉾は家で食べるそれと違い、ふんわりと歯が包まれて、ほのかに甘い。焼きたての海苔は香ばしく、初めて食べるそば屋の玉子焼きは、天国であった。

こっくりと甘く、柔らかい。体中の感覚が玉子と砂糖の甘みに抱かれて、緩んでいく。言葉が出せなかった。ただただその官能に、浸かり、落ちていった。

茫然としていると、いい匂いが襲ってくる。焼き鳥であった。鶏は、鼈甲色のタレをまとい、てらてらと輝いている。

一口食べた。ああ、なんということだろう。甘辛いタレが頭を揺さぶり、歯がめり込んだ肉は柔らかく、じゅるじゅるっと肉汁がしみだしてくる。

この世にこんなおいしいものがあったのか。大人たちは子供に内緒で、昼からこんなうまいものを、食べていたのか。

焼鳥は、それほどまでの衝撃だった。それはそうだろう、今までの焼き鳥といえば、酔っぱらった祖父が持ちかえる、銀座の焼き鳥屋の、冷えた折詰しか食べたことがなかったのだから(それでも十分においしかったですけどね)。

次々と繰り出されるご馳走に、頭は混乱し、めまいさえ覚えた。そこに現れたのである。天ざるが。

「白いっ」。思わず発したのが、この言葉だった。そばとは、灰色をしている食べものなのに、目の前にあるそばは、透き通るように白い。手を付けることをためらう、品がある。

「これはな、さらしなっていってな、上等なそば粉を使ってんだ」。おじさんは得意そうに、話す。「ほらこのそばを、天ぷらの入っているつゆにつけて、手繰ってごらん」。

「手繰る」という意味がなんだかは分からなかったけど、手前のつゆにつけて食べりゃいいんだな、ということは理解した。

それにしてもこのつゆはなんだろう。丸い天ぷらが入っているではないか。未知の天体ではあったが、黒いつゆに染まった茶色のかき揚げは、「おいしいぞ」と囁いている。

ずるるるっ。ああ、いけません。これはいけません。そばに甘辛いつゆと油のコクがからまって、別次元の食べ物となっている。

まあ当時はこんな仔細には感じていなかったと思うが、とんでもなくおいしいものを食べたという驚きが、体を貫いたのである。

 

 

「室町砂場」の驚異からは、しばらく抜け出せなかった。自分の小遣いで行くには、いささか高かったので、なんとか親を説得して出かけた。

こうなると悲しいかな、もう「巴屋」には引き返せない。あれほど楽しみだった店屋物のもりそばも、丼物を頼むようになっていく。当時は思いもよらぬが”知る悲しみ“である。こうして子供は、汚れ、成長していくのだな。

高校時代では、新たな展開はなく、池袋の大学時代に、新たな出会いが出来た。今は無き西池袋「一房」というそば屋である。

歩主人一人で切り盛る店は、お世辞にもきれいといえなかったが、そばはうまかった。黒い、太打ちのそばは、見た目は悪いが、ごわっとした舌触りで、草のような香りがした。

そしてそばつゆが素晴らしい。うま味が深くて、味が濃いのだが、角がない。このつゆに、どろどろと白濁したそば湯を入れて飲む食後が、たまらない幸せを呼んだ。

事前に頼めば、「なべそば」というのをやってくれて、鍋でそばをぐつぐつ煮ながら、様々な薬味で食べていく。そばは煮ても、腰砕けにならず、風味が増してうまくなる。常連の中にはこれしか頼まない人もいて、夏でもぐつぐつとやりながら、顔を崩していた。

もりそば一杯200円位の時代に、180円と価格も安く、店もそばにも、外見と中身の違いがあって、実をとる人だったのだろう。なによりその姿勢が、好きだった。

しかし、老主人は体調を崩したのか、次第に休みがちとなり、味が衰え、やがては店を閉じた。

途方に暮れた僕は、その後、練馬「田中屋」の量の少なさに腰を抜かし、東長崎「翁」の安いのに香り高いそば屋に感動し、西神田「一茶庵」の香りそばに打たれ(いずれも閉店)、「並木藪」や「まつや」の粋にも触れ、育まれていった。

最近のお気に入りは、庚申塚「菊谷」、神田「眠庵」、中野坂上「らすとらあだ」である。

先日、四十年ぶりに、我が家の前の「巴屋」に出かけた。ご主人に先立たれたお母さんは元気で、そばを茹でている。

四十年ぶりの「ざるそば」は、家族団らんの味だった。目を閉じれば、天ざるを食べる父がいて、カレー南蛮を食べる母がいて、おかめそばを食べる祖母がいた。

知る悲しみを得たはずなのに、うれしく、しみじみとした、おいしいざるそばだった。