6千キロをつなぐ味

去年の夏。僕は銀座のど真ん中で、途方にくれた。

 

「ブラン亭が。ブラン亭がないっ」。

 

なくなってしまった。

他にも数多くカレー屋はある。似たカレーもある。

しかし「ブラン亭」は、一つしかない。

 

インド料理店と変わらぬ、香り高さで魅了しながら、どこかお母さんが作った和風カレーのような懐かしさが含んだカレーはここにしかない。

その秘密は出自にあった。

 

喫茶店を営んでいた現店主のおばさんは、世界中を旅するのが好きで、たまたま旅先で出会ったインド人の中年女性と仲良くなり、「今度うちに遊びに来なさい」との言葉にさそわれて、インドの最北部にあるラダックの村まで訪ねたのだった。

そこでおみやげにもらったのが、彼女特製のガラムマサラ他のスパイス類である。

以後おばさんは、典型的な喫茶店の豚細切れとジャガイモ入りカレーにスパイスを入れ、徐々にインドに近付けていった。

現地で覚えた味に近づけるように、少しづつ変えていった。

それだけではない。

 

定期的にラダックに行き、カレーを食べてスパイスを貰い受け続けたという。

まだ東京には、ナイルとアジャンタ、デリーくらいしかなかった時代である。

やがておばさんは引退され、姪に店を引き継いだ。

それが「銀座ブラン亭」である。

 

チキンは少しスパイシーで、さらりとした豚は、玉ねぎの甘みが生きている。

とろりと舌に広がるキーマは、穏やかな旨味と香りの調和が丸い。

食べ終わってしばらくすると、すぐに恋しくなる魔力と、毎日食べてもあきない温かさがある。

それが、その店がない。

心に穴が空いた。

しかし。

 

1/15 銀座八丁目で復活したのである。

とある、エレベーターもなき古いビルの3階にある。

息を切らして3階まで登ると、「いらっしゃい。マッキーさん」と、見慣れた優しい目つきの女店主がいた。

カレー5種類を、一気にいただいた。

 

チキン、ポーク、キーマ、豆、野菜。

その日によって微妙に味を変えるというカレーは、懐かしさに満ち、香りで鼻を鼓舞し、優しさで舌を包む。

現在ラダックのおばさんは引退され、その息子たちが調合したスパイスが届く。

叔母から姪へ、おばあちゃんから息子へ。

 

銀座とラダック。

6千キロ離れた味の懸け橋は、脈々と繋がっていくのであった。