飄香

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飄香への階段を降りていくと、なにやらいい匂いが漂ってくる。ほの甘い香りが、胃袋をくすぐり、期待を高めていく。

 「ほらいい匂いがするだろ」。というと、

 「ほんとだ。やさしい、懐かしいような香りがする」と、連連れが微笑んだ。

 香りは、体をほぐし、心を暖め、食欲を静かにあおる。それは予感であり、都会からの遮断の始まりなのである。

 飄香の正式名は、「老四川 飄香」という。古き良き四川が香り漂うという意味だ。

 四川料理には、一般的に辛いという印象がある。さらには麻という痺れる風味を加える人もいよう。だが飄香でいただくと、そのイメージは一側面にしか過ぎず、真味は、複雑に絡み合った香りの豊かさに潜んでいることを知る。

 例えば、四川名物の前菜、「よだれ鳥」を食べてみる。茹でた鳥肉に麻辣ソースをからめて口にすれば、めまいを覚えるほど奥深い香りが交錯する。醤油や中国醤油、唐辛子、煎り唐辛子、山椒油、ピーナッツ、葱、胡麻などの香りが手を結び、甘く、酸っぱく、香ばしく、刺激的に気化し、次々と鼻に抜けていく。

「いまのはなんだろう」と、香りに翻弄されてるうちに、心が捉まれ、箸の進みが速くなっていくのである。

 厚切り豚肉の甘い香りと、にんにくや甜醤油ソースとの香りを共鳴させた、茹で豚にんにくソースかけ。絶妙な甘さが後を引く、枝豆の紹興酒の酒粕漬け。鮎の青々しい香りと山椒香が調和する鮎の香り煮。可憐な金木犀の香りをまとわせた、ミニトマトや里芋や栗といった前菜は、いずれも添加した香りが、素材の香りを際立たせ、胸を弾ませさせる。

 そして主菜の数々。悪大王スペアリブは、クミンが香ったかと思うと、様々な香りが弾け入り混じって、グラデーションを描く。滷水で茹で、揚げて炒めてあるゆえ、カラリとした表面と、味が染みたしっとりとした中身との食感の違いも面白い。

鶏の米粉蒸し(要予約)は、八角や肉桂、陳皮などを混ぜた米粉を鶏にまぶして蒸し揚げた料理で、なにより鶏の滋味が染みた米粉の味わいとエキゾチックな香りの虜になる。そのほか、乳酸醗酵した泡菜の練れた酸味が味に深みをつけた四川ピクルスとなまこの煮込み。茶葉の穏やかな香りが海老の甘みを引き立てる、上海料理の海老とマコモダケの西湖龍井茶炒めなど、香りは、舞台を彩る俳優のように、個性を主張しながらも馴染み、絡み合い、食べ手を魅了しては消えていく。

 最後の麺料理や二種類の杏仁による杏仁豆腐に至るまで、まさに百菜百味、一菜一格。皿ごとに多彩な香りが放たれ、皿ごとの品格が備わっている。

 それでいてどの料理も暖かい。大地の匂いがする。これこそ上海と成都で、豊富な野菜と惣菜の力、醗酵調味料の奥深さという、人々の知恵を学んだ井桁良樹シェフの理想系なのだろう。