隣に座ったのは

日記 ,

隣に座ったのは、品が漂う老婦人だった。
年の頃は70くらいだろうか。白髪まじりの髪をきれいに束ね、鳶色のセーターに、樺色のカーディガンを羽織っている。
首に巻いた瑠璃色のスカーフが素敵だ。
手に持った本は、ハヤカワミステリの「真夜中からの返答」。
レジナルド・ヒルの密室殺人ミステリーである。
「大沢さん(仮名)、こんばんは、いらっしゃいませ」
「こんばんは」。

座るなり店主とやり取りしている。その、ゆったりと喋る口調に品が忍ぶ。
生ビールを頼むと、店内に掲げられた品書きをじっくり眺めている。
「ああキンキがある」。嬉しそうな声で、一人つぶやくと
「キンキに鳥貝、白子と塩辛をお願い」と、頼まれた。
同い年くらいの名物女将がビールを持ってきて、挨拶をする。
「おじゃましています」と、大沢さんは応えた。
やがて料理が運ばれると、「伯楽星の冷やちょうだい」と注文した。
「今夜は冷やですか」と、女将が空のグラスを運んでくる。
「ええ。出番です」と、応える
やがて女将が一升瓶を抱えてやってきて、グラスに表面張力となるまで見事に注ぎ込む。
出番とはこのことか。
老婦人はグラスの縁まで口を運んで、つうっと飲むと、目を細めた。
時折本を読みながら、酒を飲み、肴をつまむ。
グラスを運ぶ左手の薬指には、ダイヤの指輪が光っている。
自由。どこまでも自由。
素敵な女性と出会えた時間に感謝しながら、僕もいつか自由な大人になることを夢見て、盃を口に運んだ。

浅草「志婦や」にて