趙楊さんを忍ぶ。2

食べ歩き ,

趙楊さんは1961年9/19日、四川省の南部にある宜賓市(ぎひん-し)で長男として生まれた。

「万里長江第一 城」と呼ばれる宜賓市は、「長江の最初の街」であり、長江は宜賓より上流は金沙江と呼ばれ、岷江とこの地で合流し、長江となる。

醸造業が古くから発達していた同市は、名酒・五粮液(白酒)の故郷として知られ、「酒都」の異名も持つ。

父親は医者で、母親は建築設計士という中国特有の共働きであった。

やがて二人の妹が生まれると、趙楊さんは、家にいない両親の代わりとして、料理を作らなければならなくなった。

小学校三年生の時である。

近所のおばさんたちに料理を教わり、空心菜の炒めから緑豆のおかゆまで、毎日料理を作ったという。

朝は母親からからもらったお金をもらって、自由市場に行く。

材料を吟味し、旬で安い食材を選ぶ。食材を見ながら、料理の献立を考える。

小学生の時代から料理人の修行をしていたのである。

また、タウナギや鶏肉などは、さばいてあるものを買うと高いので、全部丸ごと買って自分でさばいたという。もちろん川魚もである。

小学六年生になると、料理の腕も上がって、正月の1ヶ月前からは、ハムやソーセジなども手作りをしたという。

小学校六年生でハムを作る。末恐ろしい小学生である。

当時得意だった料理は、夏なら、ササゲを泡菜(漬物)にして、豚ひき肉と炒めた料理だったという。

あるいは新生姜を使って作った「回鍋肉」で、秋なら鶏「肉と出汁の辛い煮込み」、秋冬なら、「あひるとこんにゃくの豆板醤煮込み」、冬なら、「豚肉スペアリブと大根、昆布と人参の煮込み」か「回鍋肉」だった。

そして春なら、「新そら豆の和え物か炒め物」だったという。

どれも旬を生かし、ご飯が恋しくなる料理である。

「旬を生かす。これ一番大事」。

趙楊さんはいつも口にしていた。

中国料理は日本料理と違って、あまり旬という意識はなく、一年中同じ料理がある。

そんなに意識は、「趙楊」でことごとく覆されてきたが、趙楊さんはプロになる前から、実践してきたのである。

中学校までの義務教育が終わると、成都の有名校「第七中学校」へと進学をした(中国は、日本の中学に当たる3年を定休中学、高校に当たる機関を高級中学と呼ぶ)。

高校に入っても料理は続けた。

なにしろすでに7年以上料理をしているのだから、本人曰く、かなりのレベルに達していたという。

高校を卒業すると、その技を生かすべく、料理学校に入り、二年間学んだ。

当然ながらダントツのトップレベルである。

結果として卒業時には、筆記も実技もブッチ切りの首席で卒業することになる。

料理学校で優秀だった生徒たち15人は、国家の料理の担い手として、迎賓館「金牛賓館」に入るべく、5つ星ホテルの「錦江賓館」で実習を始める。

そこでは、エリートコック養成のための研修制度が敷かれており、生徒15人に対して60歳以上のベテラン厨士が17人ついて半年間、直接講習を受けるのだという。

その後趙楊さんは、「錦江賓館」で前菜担当となり、やがて鍋担当となる。

そしていよいよ24歳で、中国料理調理師の高位である1級厨士に合格する。

それまでの中国料理会の歴史では、最少年齢だったという。

試験は当然ながら、高度な技術が要求される。

趙楊さんが受けた時には、「紅油皮米線」という料理が出題された。

豚の皮を薄く薄く切って、辣油で会える料理である。

薄くしなやかで、滑りやすい豚皮を、薄切りにし、かつ同寸の極細切りに切り揃える、包丁の技が求められる料理であるが、趙楊さんは難なくできてしまった。

1級厨士となった趙楊さんは、「金牛賓館」に入り、45歳の総料理長の下で、なんと24歳で料理長となる。

料理人だけで30数人もいる大所帯の料理長である。

部下には、40代から60代までの料理人がいる。

それらを統率せねばならない。

しかも毎晩、政治的VIPの宴席である。

毎晩のメニューが決まると、各担当に手渡される。

しかし、ベテランの料理人の中には、料理法を知っていても「これは作ったことがない。どうやって作るんだ」と、わざと聞いてくる人が何人もいたという。

そんな時趙楊さんは、直ちに作って見せたという。

材料の選別から切り方、火の通し方、材料の合わせ方、調味の仕方、香りの出し方なんどを解説しながら、前菜から点心まで、完璧に作り上げたという。

その間一切メモは見ない。

相当数の料理が頭に入っているのである。

こうして他の料理人の信頼を勝ち得ていく。

鄧小平、パパブッシュ、オーストリア首相など、その頃成都を訪れた国賓の宴席は、すべて受け持ったという。

並行して中国の古い料理も学んでいく。

店には、アドバイザーとしての60代後半から70代の厨士がいて、料理は作らないが、古典料理をはじめとした数々の料理を伝授された。

中でも料理長にだけ、口伝で伝えられる料理があるだという。

メモもとってはいけない秘密の料理である。

それが、豚ばら肉の塊をアヒル肉や鶏肉とともにじっくりと煮込んだ「則天皇后の壺料理」や「鶏豆花」と呼ばれる、鶏胸肉を使ったおぼろ豆腐である。

それらは当時、いわば国家機密のようなものだったのかもしれない。

特別コースをお願いし、「趙楊」でいただいたことを思い出す。

それは、日本人はじめ中国人でさえ、お金を積んでもいけない「金牛賓館」でしか食べることの叶わない料理なのである。