生命の気を損なうことなく、気を入れる。

食べ歩き ,

ここに二つの料理がある。
一つは、「祇園浜作本店」の「若狭むしり」と、三田「コートドール」の「セップ茸のバターソテー」である。
二つの料理に共通するのは、「気がこもっている」ことにある。
店のご主人自らが、今料理をし、運ばれた。
フランス語では、アラミニッツと呼ぶ。
「浜作」では、見事な白皮ぐじを取り出して、目の前でご主人の森川裕之さんがおろす。
焼いてほぐし、大根おろしを乗せ、橙酢をかけ、ふり柚子をし、茹でたてのほうれん草と水菜を添える。
高級魚だからといって、姿焼きのまま出さない。あえてほぐして和え、出す、最も贅沢な料理である。
決して、三枚におろして保管しているわけではない。
大根おろしも水菜もほうれん草も、今料理されたばかりである。
食べれば甘鯛は、焼かれむしられているというのに、みずみずしく、上品な甘さが広がって、橙の甘い香りと呼応する。
一方「コートドール」のセップ茸は、注文が入ってから斉須シェフ自らがセップを選び、切り、エシャロットとともにソテする。
おそらくスーシェフがやっているのは、エシャロットの細切りだけであろう。
ただバターでソテーする。
素人にもできることであるが、そこには雲泥の差が横たわっている。
我々にできることといえば、舌を磨き、集中して、その”差”に耳をすますことである。
口にすれば、茸の体液がチュルッと出て、特有の旨みが広がり、一筋縄ではいかぬ、微かな微かなえぐみも顔を出す。
これが私のすべてだよと、舌に鼻腔に訴える。
「コートドール」では、魚料理も注文ごとにおろして加熱する。
そう「浜作」の魚や野菜も、「コートドール」の茸も、可能な限り生物の気が失われないように、料理する寸前まで触らず、間際に、瞬時で、料理をする。
そこに調理する料理人の気が加わって、料理は完成する。
作り置きしたものを料理することも、ご主人以外の人が料理することもしない。
それでは、命の気は失われてしまう。
皿の上に、生物の律動が脈打っている。
森川さんも斉須シェフも、それが一番美味しくなることであり、神経を使い苦心することでもあり、技術を要することであり、なにより最も贅沢なことであることをわきまえているのだろう。
生命の気を損なうことなく、気を入れる。
お二人は、それこそが料理の本質であることを、心得ている。