生まれて初めてケーキに負けた。

食べ歩き ,

生まれて初めてケーキに負けた。
『ア・コテ』のタルトタタンである。
それは姿からして異形であった。
箱から出された瞬間、タルトタタンだとは分かっていながら、ガトーショコラかと思ったほど黒く輝いている。
慎重に切り分けると、断面が鈍く光っているのだが、見つめていると吸い込まれそうになる。
明らかに今まで出会ったタルト・タタンとは違う。
慎重にりんご部分を一口大に切り、口に運ぶ。
その瞬間何が起きたのかわからなかった。
そして全身に鳥肌が立ったのである。
そこにりんごはいなかった。
いやこれが真のりんごの姿なのかもしれない。
崩れ、繊維はなくなり一つの塊となったりんごが舌に広がると、甘みとともに深い苦味が襲った。
カラメルのようでもあり、それを超えた人跡未踏の捉えようのなき苦味が広がる。
しかしそれは決して嫌なものではなく、自然の無限なる寛容力を示唆していた。
ねっとりねろりと口腔内にしなだれて、喉に消え、余韻を残す。
りんごを煮詰めたものなのに、口の中で生き物が蠢いている感があって、圧倒する。
「お前に私の秘密がわかるかい」と、問うてくる凄みがあって、人間としての存在の小ささを思い知らされる。
負けた。
その時ケーキに負けたと思い、再び鳥肌がたったのである。
りんごの圧倒感とクレームシャンティの淡雪のような軽さ、ギリギリまで焼き込んだ香ばしいタルトの食感が対比をなし、均整美を描きながらワルツを踊る。
夢見心地で酔いしれる陶酔感と凛々しい生命力に翻弄されながら、ようやく食べ終えた。
手もぎの紅玉を長野から送ってもらい、それを冷蔵庫に入れることなく、数日かけて加熱していく。
そうしてできたタルトタタンは、毎年二日間しか売り出さず、全て完売してしまうのだという。
今年はもう終わりらしい。
幻のタルトタタンは、食べ終わった後も1時間近く余韻を残した。
舌と鼻腔と喉の入り口あたりに、苦き余韻が居座った。
これがタルトタタンだとしたら、今まで食べてきたタルトタタンは中学生だろう。
一般受けはしないかもしれない。
しかし成熟し、歳を重ねた女性の魅力をやがて知るように、人生と経験を重ねた大人にには、魔界への入り口となるのである。