今年も、紫蘇のスープを飲むことができた。
遠い昔に初めて飲んでから、変わることがない。
いつでも、揺るぎない感動が、静かに打ち寄せる。
冷たいスプーンから流れ出た紫蘇の香りが口を満たし、やがていつしか、梅干の酸味とうまみがたなびく。
そこには境界線がなく、自分が飲んだものが、梅干しだったのか紫蘇だったのかわからぬ、永遠の丸みがある。
それは、紫蘇の精粋である。
人間の力が及ばない香りが,細胞に染み入っていく。
純潔と調和が、体に溶け込んでいく。
そこには、我々の紫蘇に対する定義をあざ笑うかのような、自然があり、絶対がある。
こうわかったようなことを書いていても、到達できない宇宙の神秘が流れている。
十年前、シェフに聞いたことがある。
「今年は、いつから紫蘇のスープをやられるのですか?」
「わかりません」。シェフは即答された。
「それは紫蘇の状態を見て、判断されるのでしょうか」
「いや私が、そろそろ飲みたいなあと思った時期が来たら作ります。だからいつからお出しできるかわからないのです」。
去年、長い間使ってきた梅干の造り手が廃業することになり、スープの存続が危ぶまれた。
だが今年もあった。
そのことをシェフに聞くと、
「そうなんです。他の梅干でやってみたのですが、どうにもうまくいかない。酸味が出すぎたりうまみが出すぎたりと。でも運良く最後に作られたものを大量にいただけることになったのです」。
まだ当分は出されるのかもしれない。
帰り際に松下支配人にも聞いた。
「梅干をたくさん仕入れられたということですが、いつかはできなくなりますよね」。
「そうですよね。でもそれはそれで、よろしいんじゃないでしょうか」。
何事にも永遠はない。
有限はある。
だからこそ、今このスープを飲む一瞬を大切にし、感謝したい。
松下さんの言葉には、そんな意味が込められていた。
「梅干しと青シソのスープ 糸瓜を浮べて Chème Spacée Emmanuelle à la ficelle」。
三田「コートドール」にて。