昔と寸分変わらぬ優しさで、いてくれた。 

食べ歩き ,

30年前、入社して最初に連れていかれたマスコミが、四谷の文化放送だった。
まだ、みのもんたさんが局アナで、バリバリやっていた頃である。
早速担当となり、日参した。
「あの番組とこの番組のゲストとってこい! とらなきゃ帰ってこなくていいぞ!!」
鬼軍曹だった課長に怒鳴られ、文化放送では頭を下げて下げた。
中でも昼の人気番組をやっていた名物ディレクターHさんが、一番難関だった。

いつもシャツの襟を立て、ヒールの高い靴を履いた、ザ芸能界の人でもあった。
とにかく口を利いてもらえない。
デスクに座ったHさんに挨拶しても無視。
レコードを差し出しても、見向きもしない。
これでどうやってゲストをとるのか。
粘るしかないと、デスクの横で、無視され続けても、かまわずプロモーションを続けた。
見られてなくても,ひたすら頭を下げた。
そうしたらある日。
「おめえうるせえんだよ。二度と俺のとこに来るな!!」
怒鳴られた。
しょげたまま文化放送の目の前にあったラーメン屋、「温州軒」に飛び込んだ。
普通の、いたって普通の東京ラーメンが好きで、 文化放送へ行くたびに食べていた。
ほんのり煮干のきいたスープは、怒鳴られ、無視され、冷たく、硬くなった僕の心をほぐしてくれた。
一心不乱に細い縮れ麺をすすれば、とっとといやなことは忘れるのだった。
Hさんに怒鳴られたその日は、特にすさんでいて、ほかのプロモーションをする気になれず、まっしぐらに温州軒に向かった。
いやなことは忘れよう。
そう、思って食べ始めたラーメンだったが、食べ終えた時
「そういえばHさん、初めて僕の存在認めてくれたんだ」と気づき、ちょっぴりうれしくなる自分がいた。
あのラーメンは、心のご馳走でもあったんだ。
それから数ヶ月経って
「おいそば食いに行くぞ」と誘われ、 Hさんとカウンターに並んで食べた、ラーメンの味は忘れない。
やがて、えらくなり、文化放送から足が遠のき、 文化放送社屋が、浜町町に移転しますとの案内がきた。
そのとき真っ先に思い浮かべたのが、温州軒である。
文化放送社員、関係者、来訪者が客の90%を占める温州軒はどうなるのか。
社屋移転後、のぞきに行ったら、店は、なかった。
思い出の味というけど、思い出にはしたくない味だった。
自分の不義理を反省した。
ところが先週四谷を歩いていたら、目の前に、別の場所に、あるではないか。
温州軒。
たまたま名前が同じこともあるかも知れぬと、中をのぞいてみたら懐かしい顔が見える。
思わず暖簾をくぐった。
「いらっしゃいっ」。
あの頃はぶっきらぼうに仕事をしていた息子さんが愛想がいい。
「あの文化放送前の店ですよね」。
「ああそうだよ。お客さん見覚えあるわ。よく来てくれてたもんね。
「はい。懐かしいなあ。いつからですか?」
「二年間くらい休んでたからね」。
ラーメンは、うますぎないおいしさで、これが本来の東京ラーメンですと言いたげな、涼しい顔をしている。
醤油も味の素も鶏がらも煮干も主張しない丸い味。
学校帰りに百円玉握り締めて食べた贅沢な味。
ラーメンはこれでいい。
普通のうまさを守り続けることに、どれだけ心を配することか。
Hさんどうしているかなあ。
しなちくを齧りながら、うれしくなり、不覚にも涙がでた。
ラーメンはこれでいい。
もう一度心の中でつぶやいて箸をおいた。

思いが詰まったラーメンは、昔と寸分変わらぬ優しさで、いてくれた。

 

 

2009年10月閉店

 

 

 

1965(昭和40)年創業の同店は、2006年7月に移転した文化放送(港区)の旧本社社屋の前で営業してきた。2代目店主の友部政義さんは、高校を卒業した18歳から店に立ち続けており、文化放送の移転や店舗兼住居の老朽化などさまざまな理由から新しい場所で営業しようと2005年3月末に一時閉店。2007年5月7日に現在の場所で営業を再開した。