この店に出かけたのは、荻昌弘の名著「味で勝負」であるから、今から40年前だった。
名物ビーフカツを紹介しながら、最後の一文にこんなことを書いている。
「肉を厚くすることで成功したのは–(教えてくないなア)ポークソテーである。この秀逸さ。醤油ソースにあり。」
店の名は「キラク」といって、今でも人形町交差点そばにあるが、その味を誠実に受け継いでいるのは、娘さんがやられている「そよいち」である。
「キラク」から通って30数年。何度も訪れては、ポークカツ、ハンバーグ、ビーフカツなどを食べたが、結局落ち着いたのは、「ポークソテー」だった。
今日も、たまにはビーフカツを食べようかなと思って店に入ったのだが、口について出たのは、「ポークソテーください。サラダ大盛りで」だった。
すると決まり事のように「ニンニクは入れますか」と聞いてくる、
僕はいつものように「はい」と、答える。
20数人は入る店はいつも混雑して、様々な注文が入るが、作るのは女主人一人である。
ハンバーグを焼き、豚をソテーし、ソースを作り、揚げ物をし、カレーを温め、盛り付けをし、目の前の客の注文を通し、トマトサラダや、アスパラなど小皿も作る。
神業である。
客を待たせることなく、次々と口頭で伝えられる注文を、次々とこなしていく。
それでいて、創業以来の味は、微塵もぶれることもない。
昨今は、高級店ばかりが注目されるが、我々はこうした町の職人にこそ、感謝しなくてはいけないのではないだろうか。
といって分をわきまえているから、メディア露出はしない。
「先日も、マッキーさんの推薦だっとテレビ取材が来ましたが、お断りしてしまいました。申し訳ありません」と、女主人は微笑む。
さて今日は、トマトサラダとコロッケをもらい、「ポークソテー」を待つか。
切った肉をフライパンに入れて炒め、取り出すと余分な脂を捨て、酒を注ぎ、ニンニクおろしを入れ、醤油を入れ、バターをモンテして仕上げる。
さあ目の目に現れた。
目の前の肉塊が、「早く食べろ」と、急かす。
醤油ソースをまとった、茶色の焼け色に唾を飲み込む。
醤油ソースをちょいとかけられて少ししなった、キャベツの細切りに微笑む。
そして名脇役であるマカロニサラダ(大盛りにしました)が、奥で輝きながら食べられるのを待っている。
もうたまりません。
肉をナイフで切って、口に運ぶ。
歯が、ギリっと肉に食い込み、肉汁が溢れ出す。
締まった脂は、甘い香りを出しながら溶けていく。
そこへニンニク香とバターのコクが溶け込んだ、醤油ソースの味わいが追いかける。
もう、ご飯である。大至急ご飯である。
またご飯も、実に正しく、質が高い。
豚ロース肉は、そのままソテーするのではなく、かぶりの部分を細かく切って、カリリと強めに火を入れている小技も憎い。
料理とは何かを熟知している人の仕事である。
だからこのポークソテーは、ただうまいというのだけではない価値がある。
食べる人の心を、滾らせながらも、整然と整える力がある。
もしあなたが東京に住んでいて、4.0以上の店や星付きの店全部に行きましたとしても、この店に行ってなければ、まだ東京人としてはエセであると言いたい。
そんな店が東京には、まだまだある。
キャベツの細切りやマカロニの食べ方、コロッケやご飯の話は 別コラムを参照してください