懐石 大原

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「世の中でつまらないものは、書家の書と、料理屋の料理だ」。

北大路魯山人が語っていた言葉である。そこには、はしりを使い、技巧に走りすぎては、面白くない、まずい、という意味が込められていた。

魯山人がお手本としたのは、「自然」だという。ただ、それをかなえることは、難しい。

なにしろ相手は自然である。いかなる叡智と技を繰り出しても、永遠にかなわぬ目標であり、超えられることはありえない。

しかし肝に銘じ、日々仕事を見直し、自然と生きとし生けるものへの敬意を忘れない料理人が生み出す料理は、胸を打つ。

ここ十年、和食の世界では、今までとは異なる流れが見られるようになった。若い世代の料理人が、独立をするようになったのである。

それまでは、若くても40代から始められる職人が多かったのだが、30代、それも前半から独立し、店を構えることが増えてきのである。

彼らの若くしなやかな感性で作られる料理は、創造性や、食材と調理法の国際交流も取り入れられて、和食の可能性を広げたといえよう。

またそれまでの割烹は、年配の男性客が多かったが、30代の男女といったお客さんも増えるようになった。

しかし一方で、高級食材を多用し、独自性を求めるあまり、技巧に走る料理も見受けられる。体裁だけを整えたように見える料理もある。

分かりやすく、見栄えのする料理もいいが、それは自然ではない。

料理に自然の美徳を求めるのは、過去の古い考えなのだろか。そう考え始めた時に出会ったのが、「懐石 大原」である。

最初に訪れた日にいただいたのは、アサリのしんじょと小メロンのお椀だった。一口飲んで、そのけれんみのない誠実な味わいに、目を丸くした。

一口目は、淡い淡い味わいながら、飲むほどに味わいが募っていく。さざ波が寄せるように満ちていく滋味が、しみじみとおいしく、感謝の気持ちが立ち上がる。

割烹で使うには地味な食材を使いながらも、あさりへの深い思いと理解が、感動を呼ぶ。そこには確かに、食材に貴賤なしという、実直な姿勢があった。

また当日いただいた、「穴子八幡巻」、「鰯と海老の丸、冬瓜の炊き合わせ」、「甘鯛の漬け焼き」など、いずれも料理の意味を知りぬいた、正統なおいしさがあって、感嘆した。

三月に裏を返した時の椀物はあいなめで、汁の端麗さにあいなめの艶めかしさが優しく出会い、それが次第に高まっていく興奮があった。

たたき木の芽を散らした「鱒の漬け焼き」は、浸け地の精妙な味わいに、鱒の旨味を慈しむ気持ちが表れていて、食べる心が座る。

「ちり酢を上からかけることなく少しだけ浸し、その量を加減しています」という「タラの白子とちり酢」は、とろりと溶ける白子とちり酢が、自然の風合いで一体となっている。

ハタ、ホウボウ、キスのお造りの味を生かす、合わせ醤油。鴨の丸、聖護院大根、粟麩、ワラビの炊き合わせの、ため息が出るような慈愛。

それらは、派手な和食に疲れていた舌をいたわった。

一見地味でさりげない料理かもしれない。しかしその朴訥とした語り口の向こうに、自然への畏怖と敬意感じる気品がある。

ご主人大原誠氏は、36歳。新潟より上京し、21歳から33歳までの12年間、目白の「和幸」にて、故高橋一郎氏に師事した。

高橋氏は、「辻留」の辻嘉一氏の元で永らく修行した、茶懐石の正道を行く料理人である。

全国から吟味した食材を使って、四季を愛し、自然と共生してきた日本人としての、深謝の心に富む料理を作られていた方である。

そしてまた、「旬のものを使う」、「持ち味を生かす」、「親切心、思いやり、心配り」という、懐石の要を料理で体現されてきた方である。

大原氏は、高橋氏亡き後、茶事の手

伝いなどをして過ごし、2012年 月、念願の店を出した。

「和幸の旦那の作る料理が好きなんです。あの料理をなんとか目指したい。そう思っています」。

そう語る大原氏の優しい目の奥には、天才料理人に少しでも近づきたいと思う情熱が燃えていた。

目先のダイナミズムを生むことは,ある意味簡単だ。しかし自然の持ち味とは、心と舌を澄ましていくうちに、感じるものではないだろうか。

食材と正直に向き合い、舌に広げ、噛み、香りをかぎ、味わいを感じていくうちに濃く、高められていく、三歩、四歩先のダイナミズムを作り出す。

手をかけ、丹念に時間をかけながら、本来の自然を表す。食材に敬意を払うということは、そういうことではないか。

それはまた、自然の力を借りて人間は生きているという事実を、再認識し、教えられる料理ではないか。

大橋氏は、持ち味を自然に活かすことの困難と重要性、そしてなにより、その喜びを知っている人だと思う。

こういう料理人こそ強い。

楽しみな店ができた。四季の巡り会わせに乗じて訪れたい。

そしてゆっくりと時間をかけ、盃を傾けながら、自分の中にある日本人と、対話をしてみたい。