〈神戸ディープシリーズ第五弾〉
夕刻、阪急六甲駅を降りて、住宅街へと登っていく。
街には、夜の帳が降りて、静まり返っていた。
路地を曲がると、先に一つ灯が見えてくる。
崖下に木造二階屋があり「寿司 彦六 →」と、書かれていた。
その昔は長屋だったという佇まいに息を飲むと、途端に時は、昭和初期へと移っていく。
階段を降りてガラス戸を開け、「こんばんは」と、声をかける。
「いらっしゃいませ」と、板場に立つご主人が返してきた。
年の頃は50代後半だろうか、温和な目をされた方である。
床は三和土、カウンターの上には、屋台の面影を伝える小さな庇が設けられている。
五席あるカウンターの端に座らせていただく
客側のカウンターの奥、つけ台との境には溝がある。
昔の寿司屋は、この溝に水を流し、指先を洗ってもらっていた。
面白いのはつけ台が高く、お客の目の高さにあることだった。
立ち上がりには、すりガラスがはめ込まれている。
奥には座敷があり、上がり框に置かれた石は、ここから靴を脱いで上がる場所だという結界を示している。
「最初は、少し切っていただけますか」。
「何を差し上げましょうか」
「平アジの酢締めとなまこ、ひらめの昆布じめを、お願いします」。
「はい。かしこまりました」。
昆布との味の交換を先ほど終えましたというヒラメは、旨味をひっそり乗せながら酒を呼ぶ。
アジは、酢によって脂が優しくなり、 粋な味わいで舌に切り込んでくる。
燗酒を二本飲んだ。
そろそろ握りをいただこう。
「イカとカンパチをください」
「はいわかりました。握りでぇす」と、誰かに声をかける。
お母さんが奥から出てこられて、イカを握られた。
おそらく80歳くらいだろう。
初代から受け継いで、永らく握られていたのがお母さんだったという。
今は息子さんに譲られているようだが、今夜はなぜかお母さんが握ってくれた。
以下次号