短冊に「椎茸めし」と書かれていた。
もう20年も通っているのに、初めて見る。
いつもは締めに頼むのは、白いご飯だ。
「うちは、あんこうと穴子の店だから、それがうまいのは当たり前。だからこそ、おしんことご飯は手を抜かない」と、老主人はいつも言われる。
その白那霸ご飯とお新香は、どんな割烹も足元に及ばない、当代一である。
しかしその夜は、
椎茸めしが運ばれた。
茶色に染まったご飯には、椎茸と穴子が見え隠れしている。
一口食べて、体の力が抜けた。
無言で笑いあう。
こんな色合いなのに、味が濃くない。
淡くもない。
煮しめた椎茸と穴子の味が、米の一粒一粒に、笑われた柔らかく染み込んでいる。
しかし、米と穴子、米と椎茸との境界線が、一切ない。
地平線の彼方まで丸い。
初めて食べるご飯であるが、なつかしく、心を優しく抱きしめる味であるが、鳥肌が立つ切れ味がある。
同席したのは、二人の料理研究家だったが、どうしてこの味にまとまるのか、わからないという。
老主人にしか、生むことができない味である。
何人たりとて、再現できない味である。
凄みのある料理とは、こういう料理を指すのだろう。
僕は、料理というものが持つ深淵と、遠大な道のりに、気が遠くなった。
「たまる」にて