下町歩き

食べ歩き ,

10代ではその価値を理解していなかった。20代では、旅する気分でデートに利用した。30代では、そば屋やてんぷら屋、すし屋や鰻屋、どじょう屋や酒亭、甘味処や洋食屋など、ならではの店を片っ端から踏破した。40代では、少し時間を作ってぶらりと歩き、見知らぬ居酒屋で独酌するのを喜びとした。そんなこんなで50になった。

中野で生まれ、各地に転居後、36年も中野に定住している身にとって、下町は憧憬の地である。訪れるたびに懐かしさが浮かび上がる。だがはたして、懐かしさがまことかどうかは定かでない。人情にほろりと心が揺れるのだが、本当にほだされているのかは確かでない。憧れや先入観、コンプレックスが、勝手に気分を生み出しているのかもしれないゾ、と自分の中の意地悪がささやく。

しかしそんな思いに翻弄されながら巡る下町も、また面白いものである。さらに50になって、酒徒の達人と陽気な女将やご主人に出会う楽しみが増えた。あんな飲み手にいつかなりたい、そう思わせる呑兵衛と、人情とユーモアに溢れた女将さんやご主人たち出会うことを願って下町に出かけるのだ。

例えば根岸の鍵屋ではこんな方に出会った。楓の分厚いカウンターに一人座って見回すと、全員が独酌客で悠然と飲んでいる。右隣の客は、見たところ80歳ほどの矍鑠たる老紳士で、ツィードの三つ揃いのスーツを着て背筋を凛と伸ばし、静かに呑んでいる。ふと手元を見ると、店の猪口は底に青い蛇の目模様が入った利き猪口なのに、九谷焼の猪口だ。やがて「お勘定をお願いします」と、紳士はバリトンボイスで告げて勘定を済ませると、ポケットから絹の白いハンカチを取り出し、猪口を包んで無造作にしまった。マイ猪口だったのだ。全ての動作がさりげなく、飄然としている。酒飲み道の遠さを痛感した夜であった。

森下の山利喜では、和辻哲郎の文庫本を読みながら赤ワインを傾け、煮込みをつついていたおじさん。月島の岸田屋では、あるはずのないご飯と焼明太子がすっと出てきて、それをすばやく掻きこみ、勘定も聞かずに、金を置いていったおじさん。千住の大はしでは、毎日来ているのだろう、黙って座ると煮込み(それも半熟玉子入り)が出て、無くなるとまた出る。当たり前だろという顔で、泰然自若として呑んでいた一人のおじさん。

女将では、「大盛りにしといたからね。たんと食べてよ。ハハハ」と煮込みを出してくれる、浅草さくまの女将さん。機関銃のようにぽんぽんと繰り出しされる世間話に、腹を抱えて笑わされる、浅草は寿の女将さん(カウンターで食べれば享受できます)。「むかしここいらは芳町といってね。やくざのいない町でねぇ」と、町の歴史をとうとうと語ってくれる、人形町のおでん屋美奈福のご主人。

または、「いらっしゃいまし」と、きりっと背を正される言葉で出迎えてくれた鍵屋の女将さん、鍋に少量入れる透明な液体(みりん)を「これはなんですか」と尋ねると、「トリカブトです」とふざけられた、湯島の鶏鍋屋鳥栄の女将さんなど、いまはもう出ていらっしゃらない方への思い出も募る。

こうした人々に会いたいため、下町に出かける。終点は居酒屋だ。

例えば根岸あたりを攻めるなら、昼はそうだなあ、日暮里で降りてそば屋の川むらで昼酒といく。ほろ良い気分で店を出て、佃煮屋の中野屋で、鰻の佃煮を買って、千駄木方面へ。途中左に折れて、谷中霊園を散策し、獅子文六、徳川慶喜、長谷川一夫、渋沢栄一、横山 大観といった墓を巡るもよし。あるいは直進して、谷中ぎんざ商店街を冷やかす。不忍通りに出て小腹が空いたら芋甚で小倉アイス、三花で稲荷をつまむ、言問通りを登ってイナムラショウゾウでモンブランと選択肢は様々。鶯谷のJRの高架を渡り、萩の湯の薬湯(宝寿湯)でひとっ風呂。用意万端。鍵屋の暖簾を潜る。さあ今日はどんな酒徒にあえるかな。