タンメンは、いま不遇の時代を生きている。

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タンメンは、いま不遇の時代を生きている。

醤油、とんこつ、塩に味噌。ご当地ラーメンにつけ麺、創作ラーメン。

雑誌のラーメン特集にはさまざまなラーメンが並ぶが、タンメンは一切見当たらない。

たまにあったと目を凝らしてみると、ワンタンメンや酸辣タンメンだったりする。

かつての中華料理店では、ラーメンの隣で燦然と輝いていた。

だがいまは消滅した店も多いと聞く。

さしたる理由があるわけでもなく、罪を犯したわけでもなく、タンメンは緩やかに凋落の道を歩み始めていたらしい。

「そういえば最近食べてないなあ」と、いま読んでいるあなたも思ったでしょう。

僕もそうである。

いつから食べていないのかもわからない。

以前は「きょうはラーメンにしようか、タンメンにしようか」と、悩んでいた。

「五目麺やチャーシュー麺には手が届かないけど、タンメンならいいか」と、ささやかな贅沢を楽しんでいた時期もあった。

そんな試みにタンメンはやさしく応えてくれる。

野菜の甘みが体に染み込んで、「もっと野菜をとらなきゃ駄目よ」と、母のような言葉をかけてくれる。

このまま不義理を欠いていては申しわけない。

そこで僕は久しぶりに飯田橋の「おけ以」に出かけた。

 

「おけ以」ではタンメンが衰退していない。

多くの客が当然のように注文するので、タンメン占拠率は80%にもなる。

店内はタンメンの甘い湯気が漂い、その湯気にあおられてつい頼んでしまう。

どんな混雑時でも野菜はシャキッとみずみずしく、味にぶれがない。

中でも細く切った白菜の芯の甘みがいい。

そして食べ終わるころには、タンメンの魅力の一つである「熱さ」によって体が上気し、なんとも豊かな気分になる。

「高揚」(中野)にも、豊かな気分を運んでくれるタンメンがある。

スープに野菜の甘みがじんわりとにじみ出て、それを鶏や豚足などによるダシの旨味と油のコクが支えている。

淡味ながら滋養を感じさせる味が、体を芯から温め、幸せな気分にさせていく。

これもタンメンの魅力の一つである。

不規則によじれてもっちりと弾む、青竹の手打ち麺が魅力な当店だが、この麺に一番馴染むのは、穏やかな味のタンメンではないだろうか。

「おけ以」と「高揚」は『炒め煮込み派』だが、もう一方の勢力『煮込み派』も忘れてはいけない。

 

 

その代表的な店が「博華」である。

暖簾にもきっぱり餃子と湯麺の二語。

品書きにはラーメンがなく、いきなり「野菜スープそば」から書かれている。

そう、昔はこんな店が多かつた。

野菜を煮込みながら何度も味見して作られるスープは、半透明で野菜の緑がほんのりにじみ出ている。

最初の一口は非常に淡く、食べ進むと次第に野菜の甘みが積もっていく。

素直で質朴な味。

美食や飽食にかまけてタンメンを振り返らなかった自分をしかることなく、いたわるように諭す味わいである。

やはり、饒舌で愉快な友達もいいけど、朴訥ながら静かな思いやりを秘めた友達も大切なのだ。

その思いやりは、野菜の慈愛に満ちた力である。

料理界では年々野菜の地位が向上し、野菜の時代が到来しようとしている。

ついに動物性のダシを使わないラーメンも登場した。

それは動物性油脂、強い旨味、濃い塩分からの脱皮でもある。

タンメン復権の日は近い。

世の流れとともに、タンメンの逆襲が、いま静かに始まろうとしている。

 

 

高揚は閉店