シマアジと車海老の純真。

食べ歩き ,

シマアジの、腹身と背側が、適切な厚さに切られて皿に盛られた。
銀皮は輝き、波しぶきをあげる。
身は、薄桃色に染めて、色気を灯す。
背側にちょんと醤油を漬け、口に運んだ。
「しこっ」。
魚は、歯が入ることを拒むように、躍動した。
脂がゆっくりと滲み出すが、微塵のいやらしさもない。
舌をさらりと流れて、品を漂わせながら、喉に落ちていく。
やがて艶やかな余韻だけを残して、消えていった。
次に薄く切られた腹身をいただく。
「クイッ」。
腹身だというのに、噛みしだく凛々しさがある。
脂の粒が小さく、ダレが微塵もない。
魚は砕けていき、キレのいい脂の甘みが舌を抱きしめた。
ああ。
僕は黙って、中空を見つめることしかできない。
やがて口からなくなるが、脂の余韻は密やかに、うま味へと変わっていった。
もう一つのお造りは、「車海老の洗い」だった。
サッとゆがき、尻尾のみもう一ゆがきして色出しをされた。
殻をむいて開き、背腸をとると、流し水に数分さらし、氷水に落とす。
「25回混ぜたら逆回しで25回混ぜなさい」。
そうご主人が指示を出した。
口に入れると、車海老の純粋が、ひんやりと舌を冷やす。
その無垢な、汚れのない甘みに、どきりと、胸が高まった。
そこには車海老がわずかに持つ、曖昧がない。
ここまで、「洗い」という仕事への徹底さは見たことがないが、その徹底さこそが、車海老の純真を導き出しているのだろう。
洗いとは、生物の「清らかさ」を抽き出す料理なのだ。
京都「浜作」にて。
 
 
縞鰺的腹身與背部,被恰到好處地切片,整齊地擺放在盤中。
銀白色的魚皮閃耀著光芒,彷彿濺起浪花。
魚肉染上一抹淡淡的粉紅,透出一絲性感的光澤。
我將背部沾了些許醬油,送入口中。
「喀嗒」。
魚肉彷彿拒絕牙齒的侵入般,活力十足地彈跳著。
脂肪緩緩滲出,卻一點都不膩口。
魚肉滑過舌面,帶著一股高雅的氣息,順喉而下。
最後,只留下艷麗的餘韻,在口中悄然消散。
接著,我品嚐了切得較薄的腹身。
「咕唧」。
雖是腹部的部位,卻仍保有令人驚豔的緊緻感。
脂肪細密,毫無鬆垮之感。
魚肉漸漸在口中化開,乾淨俐落的甘甜脂香,緊緊擁抱著我的舌頭。
啊……我只能默默地凝望著天花板。
魚肉雖已消失,但那脂香的餘韻,悄然轉化為濃厚的旨味,仍縈繞不散。
另一道刺身,是「車蝦洗」。
蝦經過快速汆燙,再將尾部稍作加熱上色。
去殼後剖開,去除腸泥,再沖洗數分鐘後,放入冰水中冰鎮。
「攪拌25次後,再反方向攪25次。」
師傅這樣吩咐。
入口瞬間,車蝦的純淨清涼了舌尖。
那無瑕純粹的甘甜,使我心頭一緊,胸口微微悸動。
這裡的車蝦,沒有一絲曖昧不清的味道。
對「洗」這道工序的極致講究,我從未見過。
正是這樣的徹底,才將車蝦的純真引領出來。
「洗」——就是一門將生物的「潔淨」提煉出來的料理藝術。
——於京都「浜作」一席。