また会いたくなる餃子

食べ歩き ,

名物は当餃子である。

ほとんどのお客さんが頼み、1日に100人前が出る。

創業者清水秀夫さんは、日本で焼餃子を初めて出したとされる、今は無き渋谷「珉珉羊肉館」の料理長だった。

1965年に独立して、赤坂に「珉珉」を構える。

餃子の故郷中国東北部では、水餃子が余った翌日に、餃子を焼く。

ニンニクは入れない。

また餃子は、主食と副食を兼ねた料理なので、一緒にご飯は食べない。

しかし日本人は、ご飯のおかずを求めるので、焼き餃子の方が合う。

戦後間もなくして店を開いた「珉珉羊肉館」の創業者はそう考えて、ニンニクを入りの焼き餃子を品書きに乗せた。

これが当たったのである。

「珉珉羊肉館」の餃子より、「珉珉」の方が、餡の味わいが濃い。

それこそが清水さんの矜持だったのだろう。

「珉珉」は流行った。

 

しかしある日清水さんは病に倒れる。

他人に店を任せていたたが、味が落ち、常連は離れていった。

このままでは潰れる。そこで息子さんたちが継ぐことを決意する。

料理は、父からすべてを教わった。

餃子は、野菜の粗さ加減と水分量に心を配り、毎日手で練った。

なにより手を抜かないことを肝に命じた。

父は、息子の料理をなかなか認めなかったが、亡くなられる寸前「もう俺は叶わねえな」と、思わず漏らしたという

 

「珉珉」の餃子のタレは、酢胡椒である。

だからしつこくなく、いくらでも食べられる。

いやそれだけではない。

よく練られた肉の味が生きているので、醤油や辣油に逃げなくとも、十分にうまい

噛めば噛むほど、うま味が滲み、素のままでもご飯が恋しくなる餃子である。

現在、兄の浩さんは44歳、弟の誠さんは39歳。

継いで15年だが、最初の5年は苦しかった。

その時地元の後輩が手伝ってくれ、今も働いている。

「辛い時も支えてくれた彼らには、感謝してもしきれない」。

日本初の焼餃子を、父が継いで進化させ、息子が改良し、後輩たちが盛り立ててきた。

その餃子は、後を引く。

食べてしばらく経つと、無性に食べたくなる。

そこには人情が包まれている。

だからまた、会いたくなるのだ。