「この世に、まずいカレーは存在しない」。
そう信じ込んできた半生が、裏切られた。
「まずいカレーを出す店がある」。という話を聞いたのは、二十年前のことである。
まずい料理は、世間に多く存在する。
まずいラーメン。まずいスパゲッティ。まずい刺身。
しかしカレーだけはどうあっても、まずくなりようがない。唾液を誘う匂い。溶け込んだうまみ。カレーが持つ、この二つの利点は、ご飯や具のまずさも、味付けのミスも飲み込んでしまう。
包容力が豊かで、ストライクゾーンの広い料理なのだ。それが、「うまくない」ではなく、「まずい」というのだ。
「焦がしちゃった」。「間違えて醤油やソースを大量に入れちゃった」。という事故もあるが、仮にもプロの店である。専門店である。事故を放置するなど、ありえないではないか。
事件である。すぐさま現場検証に向かわねばならない。そこでただちに友人を呼び集め、三人で現場に乗り込むことにした。
目指すは、新橋駅前ビルの地下である。あろうことか、飲食店ひしめく激戦区にその店はあった。
カウンターだけの細長い店で、五十歳位だろうか、親父が一人で切り盛っている。昼時だが、他に客はいない。
カレーは三種類。ビーフ、ポーク、玉子である。
やはり三人でよかった。三種のうち、いずれかがまずいという可能性もあるからだ。
親父は寡黙である。我々が店に入っても一瞥しただけで、なにも言わない。カレーを頼んでもうなづくだけで、返事もしない。
いい。最高のお膳立てじゃないですか。
親父がジャーを開けてご飯をよそい、別鍋で温めていたルーをかけ、「ポークは?」と、本日始めての言葉を発する。
三つの皿が並んだ。ビーフとポークはルーが異なるようで、色合いが違う。二個のゆで卵が薄切られた玉子カレーは、どうやらポークの流用のようだ。
一同、期待に胸を膨らませてスプーンを手に取った。ルーをよくよくご飯にからませて、口の中に滑り込ませる。
カレーだ。
紛れもなくカレーの香りだ。
どこがまずいのだろう?
慎重に咀嚼し、ゆっくりと味わい、喉下に落ちようとした刹那、合点した。他の二名も同時に悟ったようで、目を合わせ、無言でうなづきあった。
「ご飯がくさい」。
「噛んでも噛んでも飲み込めないほど、肉が筋張っている」。
「辛いだけでうまみがない」。
「小麦粉がダマになっちゃっている」。
「カレーの匂いが薄く、どちらかというとまずいハヤシライス」。
「スプーン持つ手がつりそうになるほど、ルーが重い」。
道中に予測した推論は、どれも外れた。答えは単純明瞭、「しょっぱい」のである。
塩分に対する親父の味覚中枢がこわれているのか。異常な汗かきで、塩分が恒常的に不足しているのか。
とにかく、しょっぱいのである。
しかも始末が悪いことに、一口で飛び上がり、さじを投げ出したくなる塩辛さではない。
一口目で、「ん?」。二口目で、「むむ?」。三口目で、「ダメだ」と、挫折する塩辛さなのだ。塩分が口腔に沈殿していくために、四口目以降は苦しい。やたら水を飲みたくなる。
カレー半分、五合目にさしかかると、もう、海の水を静脈注射されている気分である。
素っ裸にされて、ソルトレイクか死海に放置されている気分である。
〆鯖の気持ちが、痛いほどわかる。
カレーの辛味は、火傷と勘違いした脳が出すドーパミンによって、潜在的快感を呼び、中毒化させる。しかし、しょっぱさは、精神中枢をいたぶる。
もう塩分は充分だよと命令している脳に対し、これでもかと塩分を注入するので、軽いパニックを起こし、精神が壊れていく。やぶれかぶれにならなければ、食べ進むことはできない。
もはやこれは、しょっぱさではない。本能に抗う、ジレンマを味わうのである。
だが我々は、まずさを承知で頼んだ。あえて険しき、北壁の登山ルートを選んだのだ。投げ出すわけにはいかない。
根性で食べ終えた。辛さなのか、塩分の影響なのか、汗が滝のように噴出している。口は真夏の犬のようにあえぎ、水差しから直接水を飲みたい。
その後、金を払ったのかも、どう歩いたのかも覚えていない。駅に着いて我に返り、
「まずかったなあ」。「しょっぱかったなあ」。と、うなだれた。
正直に言えば、冷やかし半分、洒落のつもりであった。しかしまずさは、そんな浮ついた気分を、ことごとく粉砕したのだ。
一口食べてまずいのではない。蓄積し、精神をもてあそぶ。こういうまずさもあることを知った。
毎日まずいものを食べては、すさんでいくばかりだが、まれに出会うまずさは、精神を鍛えるのである。
と、ここまで書いて、猛烈に行きたくなった酔狂な方もおられようが、残念ながら店はもうない。
営業不振か、塩分過剰摂取で身体を壊されたのか理由はわからない。まずい、希少なカレー屋は、姿を消した。
以後二十年、ぼくはまずいカレーに出会っていない。