「ん? 濃い」。
「片折」では先付けの後に、いつも削りたての鰹節でとった出汁が供される。
切子のグラスに入ったそれをいただいた時、先月よりほのかに強さを感じた。
色も若干、深いように思う。
毎日同じ質の昆布や鰹節を、同じ量使っていても日々かすかな違いが出ることを、教わってきた。
今回もそのせいだろうかと思っていたが、答えは次の煮物椀に隠されていた。
「おこぜのお椀」である。
吸い口も椀ツマもなき、おこぜの力だけを信頼した、潔いお椀から、香りが立ち上って顔を包む。
一口つゆをすする。
「ああ」。言葉にならないうめきが漏れて、体から力が抜けていく。
おこぜを箸で崩し、口に運ぶ。
「うう」。またうめき声が漏れて、顔が崩れる。
先月のお椀は、アイナメだった。
脂が乗ったアイナメには、淡い淡い出汁の仕立てにして、塩もほぼ使わずお椀とされた。
アイナメの脂とその香りがつゆと抱き合って、高みに登っていく時間がたまらない。
しかしおこぜは、身は優美に甘くうっとりとさせるが、皮側にたくましい香りが潜んでいる。
どう猛なる顔に表れた生命力の強さが香りにあって、それゆえの濃い出汁なのである。
出汁は、身の甘味と皮側の香りと出会って、滋味を深く、深く、広げていく。
そして時は、永遠となる。
これこそが、煮物椀の醍醐味である。