「冷やし中華に添えてあるスイカ、あれってどうしても許せないんですよね」。
とあるバーで食べ物の話をしていたら、バーテンダーが、「冷やし中華にスイカはいらないぞ論」を、いきなりぶつけてきた。
「異議なし」。僕は即座に同意した。
彩りのためだけに添えられたスイカの不憫なこと。
こんな所で使われなかったら、今頃半月形に切られてがぶりと食べられ、汁を飛び散らせていただろうに。
だいたい、冷やし中華の味とスイカの風味が合ってないではないか。
まだ冷麺や冷や麦のほうが許せるが、それでもスイカを添えときゃ季節感が出るだろうという魂胆があるようで、どうも納得できん。
納得できないのに、もったいないので食べてしまうときのわびしさといったらない。
食べ手の気持ちとスイカの気持ちを、全く理解していない。
てな具合に大いに盛り上がり、「全国冷やし中華スイカ排除運動」を、二人で立ち上げることにした。
まず手始めとして、そんな冷やし中華に出会ったら、麺、具、汁をきれいに食べ、スイカだけを皿の中央に残す、無言の抗議行動をとることにした。
さらに運動拡大化のため、「許せないスイカのあり方」についても協議をした。
「海辺でのスイカ割り」許さないぞ。
飛び散ったスイカがもったいないぞ。砂浜で熱せられたスイカはまずいぞ。
黄色い果肉のスイカや、果皮が黄色いのも許さないぞ。保守といわれようが、緑と赤を断固として支持するぞ。
西瓜という漢字は許さないぞ。
いくらエジプト、中国、日本と渡来して名づけられたという背景があっても、イメージが全くわかないぞ。
水夏とか水果とか、みずみずしさを喚起させる当て字にしたいぞ。
と、勝手にいきどおってみたのだが、中でも最も許せない問題としたのは、カットされて売られているスイカである。
なぜならスイカの味覚は、丸ごとのスイカを買う時点より始まると考えるからである。
「大きすぎて冷蔵庫に入らない」という消費者のわがままな理由で、小さく品種改良され、切り別けて売られるようになっのは、十五年程前からだそうだが、それ以前のスイカ事情には味わいがあった。
スーパーの袋にすっぽり隠れてしまう現代と違い、スイカをぶら下げた人を町で見かけると、「ああ夏が来た」と胸ときめかせ、母にねだる。
八百屋では、
「奥さん、今日のスイカは甘いよ。ほらこれなんかどう、いい音でしょ」と、おじさんがボンボンと手で叩いて渡してくれたものだ。
わが家の場合、買ってきたスイカは水を張った風呂桶で冷やした。
早く食べたいばかりに、何度も風呂場に冷え具合を見に行く。
しかしいざ切ると、ふかふかだったり、甘くなかったりして、「騙された、八百屋のおじさんの嘘つき」と、口をとがらせることが多く、それゆえに、二つに割れて真っ赤な果肉が現れたときは、「やったぁ」と、一家で歓声を上げたものである。
こうして僕らは、スイカと共に人生の機微を覚えていったのである。なんてね。